読売梁山泊の記者たち p.296-297 半年ほどで控訴を取り下げてしまった

読売梁山泊の記者たち p.296-297 当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。 小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧 問室に伺って、公判の打ち合わせがある。
読売梁山泊の記者たち p.296-297 当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。 小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧 問室に伺って、公判の打ち合わせがある。

裁判についても、書いておかねばならないだろう。一審は、中村主任弁護人、風間弁護人がついた。母方の従兄弟である、小野清一郎・法務省特別顧問・弁護士に、相談にいったところ、明解な見通しを示された。

「一審は、有罪。懲役六カ月、猶予二年というところかな。二審でついてあげるから、一審は中村先生におまかせしなさい。拳銃不法所持の訴因について、争う余地があるから。でも、一審の裁判官は、冒険を試みはしないから、やはり有罪だよ」

私の、小笠原の指名手配犯人という認識は、横井英樹を射った拳銃の、不法所持犯人という認識であった。

ところが、小笠原が奈良旅館で語ったように、実際の射撃犯は千葉で、小笠原は誤手配であったことが、明らかになっていた。検察は、その時点で、小笠原の供述のなかに、むかし、拳銃の入ったボストンバッグを、東宝撮影所のロッカーに隠した、とあるのを取り上げて、私が小笠原を知る以前の、拳銃不法所持犯人と、訴因を変更していた。

——バカらしい。オレは、横井事件が発生してから、小笠原を紹介され、その時点で、横井を射った拳銃の不法所持犯人という認識はあった。それが、誤りだったとなれば、犯人という認識が崩れたのだから、無罪だ!

何年も前の、違う拳銃の不法所持犯人という認識など、まったく無かったのである。小野弁護士は、そのことを指して、「争う余地がある」と、いわれたのだった。

東京高裁で二審が始まった。小野主任弁護人で、審理が進んだ。当時、すでにミタコンという名の、マスコミ・コンサルタント業を開業していたので、私は多忙を極めていた。

小野弁護士ほどの、大物弁護士となると、依頼人のほうが大変だ。アポを取って、法務省の特別顧

問室に伺って、公判の打ち合わせがある。公判当日は、車で本郷の私邸にお迎えに行き、車でお送りする。次回の打ち合わせ、次回の準備と、私は、すっかりくたびれてしまい、控訴審が始まって、半年ほどで、控訴を取り下げてしまった。一審判決が確定した。懲役六月、執行猶予二年の刑であった。そして、猶予期間の二年間を、無事に、なにごともなく、満了したのだった——。

それと同時に、イヤ、それよりも早く、私は保釈出所すると同時に、文芸春秋本誌に、「我が名は悪徳記者・事件記者と犯罪の間」という、長文の原稿を書いていた。これは、その年、昭和三十三年十月号に掲載され、その年度の、文春読者賞にランクされるほどの評判で、これで、精神的な決着をつけ、控訴取下げ、判決確定、猶予期間満了で、物理的な決着をも、つけていたのだった。

いま「新聞記者のド根性」はいずこへ

この、私の安藤組事件の期間、原四郎は出版局長として、新聞から離れていた。だからこの〝事件〟に関しては、原のアクションはなかった。そして、この年の秋、新聞週間で講師になった原出版局長は、こういった。

「週刊誌ブームというのも、ラジオが思わぬ発達をとげたために、起こったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌など、つぶしてしまわねばならないと思う」

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版

局長の言葉である。