この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。週刊誌を発行している、出版
局長の言葉である。
そしてまた、原が出版局長から、小島の病死のあとを襲って編集局長へもどってきて、社会部の部会へ出た時、彼はこう訓示した。
「読売の社会部というのは、読売新聞の主軸なンだ。かつて、遠藤とか三田とかいう記者たちがいて、身を以て築きあげた〝伝統〟をうけついで、仕事に挺身してもらいたい」
私の名前が出て来るのが恐縮だが、自分に対して悪感情を持ち〝切り出しナイフをもって迫って〟くるような遠藤をさえも、原は仕事への情熱という点では、相当に評価していたことが、うかがわれる。
原の訓示の趣旨は、おおむね前記のようなものであったらしいが、訓示されていた、若い社会部の記者たちには、原のこのような〝檄〟も、あまり感動を呼ばなかったようだ。私に、その話をしてくれたある記者が、「遠藤だ、三田だといっても、時代が変わっているのだから、あまりピンと来なかったようだ」とつけ加えていたからである。
また、私の名前が出たついでに、原はこうもいっている。昭和四十二年八月八日付の「新聞協会報」は、全国学校新聞指導教官講習会における、原の「私の新聞制作の態度」と題する講演の要旨を報じているのだが、「取材対象には、できるだけ近付かねばならぬが、それと同時に、最後まで相手と対立する立場を維持しなければならない」「新人記者には、徹底的な基礎訓練が必要である」とする、その講演の中に、次のようなクダリがある。
「社会部長時代、私の部下にいた優秀な事件記者が、取材に熱心のあまり、ピストル傷害事件の犯人をかくまい、記事を独占しようとしたことがあった。彼は、取材対象にあまりにも近づこうとして、本来守るべきルールを忘れてしまったわけだ。
彼の上司であった自分にも、当然、責任があったわけで、事件のあと『あれほどの優秀な記者が、なぜあのようなばかげたことをしてしまったのか』と、反省してみた。彼が記者として成長してきた過程をふりかえると、彼は入社したあと、記者として十分な訓練をうけないうちに、すぐ兵隊にとられ、戦地とシベリアの抑留所で、長い年月をすごした。
帰国したのち、すぐに大きな事件を担当するようになり、また、これをこなすだけの力を持っていた。われわれも、これが本当の才能と信じていたわけだが、あとになって考えてみれば、彼には記者になるための、十分な基礎訓練を受ける機会がなかったことが、大きな原因になっている、と思う」
尊敬する先輩であり、かつての、直属上司であった、原の言葉ではあるが、〝あれほどの優秀な記者〟と、過分な表現をされた私として、この講演に異議をさしはさまねばならない部分がある。
私が、昭和三十三年六月十一日の夜、銀座のビルで発生した、「横井社長殺害未遂事件」で、〝本来守るべきルールを忘れ〟てしまったことは、事実である。そのために、犯人隠避として刑事訴追を受けたことが、果たして〝バカげた〟ことであったかどうかは、別の問題であろう。
本人である私は、今にしても、決してあの行為を、〝バカげて〟いたとは思えないのである。もっとも、〝バカげて〟いるというのは原の主観であって、あの事件で社を辞めなければ、今ごろは、原編集
局長のもとで、もっと〝新聞〟のために働けたであろうにという、「惜しい男をなくした」という、編集局長としての〝親心〟であろうか。そのほうが、三田にとっても社にとっても、新聞界にとっても、プラスであったのに……バカげているという、それこそ身に余る言葉であると考えている。