この〝記者のド根性〟が、十分に叩きこまれているかどうかが、基礎訓練の度合いを示すものだと
考える。批判の眼は、常に清潔でなければならないのだ。不正を憎み、不義に憤らねば、その眼は濁ってくる。抵抗の精神は、まず己れに厳しくあらねばならない。自分に抵抗することなくして、何の〝抵抗〟であろうか。
私が、自分自身の〝事件〟を通じ、学んだことは、否、学び直したことは、やはり、このような〝記者のド根性〟であった。
しかし、〝記者のド根性〟が必要とされるのは、やはり、記者が「無冠の帝王」であり、新聞が「社会の木鐸」である時代であったようである。原の訓示が、若い記者たちに身ぶるいを起こさせ、共感の嘆声を発せしめ得なかったということは、そこに、局長と、局長以下との間に、「断層」があるということであろう。
そのような時代には、部下を怒鳴りつけ、上司、先輩に反抗して「批判」と「抵抗」の精神が培われていったのであった。これをもって、原は、「新人記者の徹底的基礎訓練」といったのであろう。
部下に対する信頼も〝赤心をおして人の腹中におく〟態のものであった。前述した、「東京租界」の企画のスタートに当たって、部長として私に与えた言葉はただ一つ——「名誉棄損の告訴が、何十本と舞いこんでも、ビクともしないような取材をしろよ」であった。この言葉に、感奮興起しないような「新聞記者」がいるだろうか。
しかし、このような実力と経歴とからくる原の「自信」が、いよいよ、局長と局長以下との間の「断層」をきわだたせる。
そして、もうひとり——原の良き理解者であった務臺光雄がいる。
務臺が逝ったのが、平成三年四月三十日。その一月から六月までの、平均ABC調査部数は、読売をトップとして、九百七十六万五千部弱の数字をあげている。
実に、一千万部を目前にして、務臺は逝ったのであった。その胸中たるや、無念の一語に尽きるであろう。
正力松太郎の、当時としては、斬新極まりない企画力と実行力が、三流紙の読売を大きく飛躍させた。もちろん、〝販売の神様〟務臺が、宅配制度を守り抜いて、それをバックアップしたからである。
加うるに、原四郎の紙面作り。社会部を主軸とした、〝事件の読売〟という目玉が、ついに、日本一の新聞という地位に就かしめたのだった。
昭和二十三年の発言ではあるが、「週刊誌などは、新聞が増ページしてツブせ!」という原の見通しは、〈新聞がしっかりしない〉こともあって、現実からは、乖離した結果となっている。
そして、務臺が苦労しつづけた宅配制度もまた、崩壊に瀕している。労働力が足りない——これは、合売制への転換を示唆している。
この秋、読売の築き上げた、一千万部近い部数は、どうなってゆくのであろうか。「原四郎の時代」は、確実に終わったのだ。
正力松太郎、務臺光雄、原四郎という、昭和の新聞史に、その名を刻する三人の、鎮魂の想いをこめて、この稿を終わる——。