見張り台、つまり洗面中の真上から、叱責の声がとんできた。昨夜、二階の二十二房というのに、はじめて熟睡した私だったが、まだ場馴れないのと、留置場内の地理に明るくないので、その声が私を呼んでいることは判ったが、何処からなのか、誰からなのか、見当もつかないのである。
それに、メガネを取り上げられているのだから、キョロキョロ見廻したが、金網ごしの相手の顔など、判りやしない。
その翌日かに、朝の運動の時間、また私に声をかけた、顔に傷のある青年がいた。
「オイ、読売!」
はじめて留置場に入る時、私の身体捜検をしてくれた巡査部長の看守が、私の身分を知ってから、親切に注意をしてくれた。「イイカイ。留置場の中には、どんな悪い奴がいるか判らないのだから、決して本名や商売のことなど、いウンじゃないぜ」と。
つまり、相手の家庭状況や住所を聞いて、先に出所すると、留守宅へ行ってサギなどを働くというのである。私は彼の注意を思い出して、あいまいに返事もしなかった。何しろ、知らない男だからだ。しかし、私の顔は「オイ、読売」という呼びかけに、明らかにうなずいていた。
「あなたは、読売の記者でしょう?」
相手の言葉が叮寧になったので、私はうなずいた。しかし、その日は、それで終り。何しろ、スレ違いのさい、看守が制止する中での会話だ。
「今朝運動の時、オレに声をかけた奴がいるンだけど、この前の洗面の時の奴と同じらしいよ。顔に傷があるンだけど、誰だい」
「何だい? オメエ知らねエのかい?」
調べの合間に、石村主任にきくと、彼は意外だという表情できき返した。
「ハハン、安藤かい?」
それで判った。房内には、顔に傷のある男が多いし、同一事件のホシは各署の留置場へ分散するのが通例だから、まさか安藤とは思わなかった。
手記の相談
運動というのは、毎日一回だけ、タバコ一本を戸外で吸わせてくれるのである。運動という名で呼ばれているが、駈け足や体操などするわけではない。オヤ指を焦がす位、時間をかけて吸う一本のタバコ、約八分ほどの間だけ、太陽光線を浴びさせる時間だ。
安藤はその後の運動の時間にも、「このたびは御迷惑をかけてしまって、何とも申しわけありません」とか、「会社の方は大丈夫ですか」「身体は悪くありませんか」などと、顔があうたびにキチンと声をかけて挨拶をしてきた。そのようなやりとりが、私と安藤との間にあってからの、この電話なのだ。
例のように、私の健康へのいたわりの言葉があってから、彼は用件に入ってきた。
「実はね、三田さん。文芸春秋から、私に手記を書けって、いってきたんだけど、どうしましょう」
「何、手記? いいじゃないか。あンたの横井を射ったことについての、感想をかけばいいよ」
「ブンヤさん! 担当!」
ヨネさんの低く押しつぶした、鋭い声が飛んだ。