最後の事件記者 p.230-231 私は房内ですでに想を練りはじめた

最後の事件記者 p.230-231 私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。
最後の事件記者 p.230-231 私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。

私が編集者ならば、やはり同じように安藤の手記をとろうとするに違いない。文春は発行部数数十万という大雑誌だ。ケチな新聞よりは読まれている。その雑誌が、九月号に引続き、九月上旬発売の十月号でも、安藤組を取りあげようとしている。

逮捕、拘留されている安藤は、取材の盲点である。私とて同様だ。それに着眼して弁護士を通じて、手記を取ろうとする編集者に感服すると同時に、それならば、私の手記もまた、安藤の手記と組まして、十分に価値があるはずだと判断した。

——そうだ。文春に私の立場を書こう。

私はそう考えると、差入れに通ってくる妻への伝言を頼んだ。接見禁止処分だから、会うことは許されない。

文春の編集部には、何人かの知人がいる。私が手記を書きたいという意志を伝えておいて、それが採用されるならば、あとは〆切日ギリギリまでに、保釈で出ればよいのだ。私は調べ官に、妻に〆切日を聞かせてほしい、と頼んだ。

〆切日は、安藤の手記が二十日だというから、二十五日ごろと考えた。妻の返事によるとやはりそうだった。私は房内ですでに想を練りはじめた。新聞ジャーナリズムが、私に機会を与えないならば、雑誌ジャーナリズムによるのが一番だ。

新聞は長い間、マスコミの王座に君臨し、いわば永久政権として安逸をむさぼってきたのである。これに対し、雑誌をはじめ、ラジオ・テレビと、他のマスコミが、その王座をおびやかしは

じめている。いろいろの雑誌に新聞批判の頁が設けられていることが、それを物語っているではないか。

私は安藤の相談に対して、「ただ申し訳ないと、謝らなければいけないよ。そして、横井が悪い奴ならば、その悪党ぶりをバラしてやれよ」と、答えておいた。

十五日に保釈出所するや、その翌日には、私は文芸春秋の田川博一編集長に会っていた。二十五日間の休養で、元気一ぱいだった。

「私は、横井事件を一挙に解決しようと思って、小笠原を一時的に、北海道という〝冷蔵庫〟へ納めておいたのです。それは、安藤以下、五人の犯人を全部生け捕りにするためです」

「ナニ? 五人の犯人の生け捕り?」

「そうです。そして、五日間、読売の連続スクープにして、しかも、事件を一挙に解決しようという計画だったのです」

「しかし、あなたは、大変な悪徳記者だと思われていますよ」

「そうです。私は各社の記事をみて、そう思いました。しかし、新聞は果して、真実を伝えているのでしょうか」

「……」

「なるほど。私が一番に感じたことは、少なくとも私の場合、新聞の時間的、量的(スペース)制約を考えても、新聞は真実を伝えていないということです。同時に、私もあのように、私の筆で

何人かの人をコロしたかも知れない、という反省でした」