私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実で
はない、なぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。私は田川編集長の期待に応えて、面白い原稿を書こうと考えた。
文春の記事を読んだ、福岡県の田舎の方から手紙をもらった。「……かかる目に見えない暴力と闘って下さい。しかし、あなたには記事にして発表する場と力があります。まだまだ弱い立場の人が沢山いるのです……」
共産党はお断り
メーデー事件のK被告
故旧いかで忘れ得べき——めぐりあいというものは、なかなかにドラマチックで、懐古趣味のある私などには、たまらないよろこびを与えてくれるものである。
田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。昭和二十七年秋の選挙、といえば、共産党が血のメーデー以来の火焰ビン闘争の批判を受けて、全滅してしまったことで有名な選挙だったが、そのころのことである。
(写真キャプション)むかしの日共はホントのことを書いてもこれだ
当時、遊軍記者として本社勤務だった私は、〝反動読売の反動記者〟と目されて、共産党関係のデマ・メーカーといわれていた。そんなある日、私は村木千里弁護士の事務所にフト立寄った。
村木弁護士は、明大を出てから、東京裁判の間、ウォーレン弁護士の助手を勤め、独立してからはほとんど外事専門の弁護士をしていたのだが、彼女のもとに共産党の事件の依頼があったという。聞くとメーデー事件の被告だというので、私は面白いと感じた。
彼女の扱っているのは、アメリカ人を中心にほとんど出入国管理令、外国為替管理法、関税法とかの、いわば資本主義的外事事件ばかりなのに、そこへ共産党だというから、ソ連人がアメリカに逃げこんできたような感じだった。
何しろ、公判へ廻ってからのメーデー事件と
いうのは、アカハタとインターナショナルの歌の渦で、怒号、拍手など、とても審理どころではなく、その法廷闘争には裁判所も手を焼いていた。そんな狂騒の中で、いわば興奮から事件にまきこまれた、可哀想な被告たちのうちには、静かに考え出す者が出はじめて、分離公判を希望するものがあったのだが、今までは表面化していなかったのである。