最後の事件記者 p.250-251 私の人間形成に五中の影響は極めて大きかった

最後の事件記者 p.250-251 当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。
最後の事件記者 p.250-251 当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。

あこがれの新聞記者

懐しき悪童の頃

悪童の昔は懐しい。思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年間の池袋かいわい、静かな大和郷を抜けて、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。

大正十年六月十一日、横井事件の発生と日を同じうして、大阪府下豊中郡(現豊中市)で私は生れた。当時、九大助教授を辞して、大阪市に大きな外科病院を経営し、その院長となっていた、父源四郎の五男であった。生後一年半で、〝医者の不養生〟から脳炎に倒れた父に死別し、一家は郷里岩手県盛岡市に帰ってきた。

キリスト教会の幼稚園から、県立女子師範の付属小学校二年に進んだ時、一家はあげて東京へ移り住んだのである。当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。

五中というのは、「創作、開拓」をモットーとした、自由主義校であった。私の人間形成に、

この中学の影響は極めて大きかった。人生の最初の関門ともいうべき、この中学へ合格できたという誇りが私を官僚志望へと向わせた。

級友の兄の少壮大蔵官僚に刺激されて、役人を目指して勉強にはげんでいた時代が、この私にもあったのだから懐しい。一高、浦和を目指すこの秀才少年も、やがて、上級生の中に、後の左翼評論家キクチ・ショウイチを知るにおよんで、早くもコースから外れてしまった。

中学二年のころ、五中の先輩故金杉惇郎の主宰する新劇団「テアトル・コメディ」というのが活躍していた。金杉夫人の長岡輝子の母堂が、私の母の女学校時代の先生だったので、お義理の切符が廻ってきた。私はそれをもらって、はじめて築地小劇場に行って、たまらない魅力を感じてしまった。

五中生の創作活動というのは、学校の奨励と相俟って、極めて盛んだった。その時、キクチ・ショウイチが演劇部というのを新設したものだから、私はイの一番に参加した。そうして、新協、新築地、文学座などと、当時の新劇公演をみて歩くうち、「役人になろうなんて、何てバカヤローだ」と、考えるようになってしまった。

上級に進むにつれ、私は「官僚」を完全に投げ出していた。校友会の雑誌部で「開拓」という校友会雑誌を、論文と創作だけで編集してみたり、真船豊の芝居を上演したり、学生新聞の発刊を計画しては、先生に叱られたりといったように、どちらかといえば左翼ヅイていたのだった。

卒業の時、水戸高校の文科を受けた。受験勉強などはあまりしていなかったが、学科試験には

十分自信があった。発表を見に水戸まで出かけてゆくと、合格しているではないか。自信があったとはいえ、こんな嬉しいことはなかった。同行して理科を受けた漢方薬問屋の倅山崎という男と、祝盃をあげようということになったのが、間違いのはじまりだ。