数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一枚ペラ(表裏二頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をボトボトと、紙面に
落した。
——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。
しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、昨日のように、胸に迫ってきた。
署名入り処女作
昭和二十二年十一月二十四日(月)
抑留二年、シベリア印象記 本社記者 三 田 和 夫
ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソしたわれわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。
一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。
子供に鉛筆をネダられた母親は、新しい一本の鉛筆の代償に、バケツ一杯のジャガ芋を車中へほうりこんでくれた。軍用石ケンを鼻に押しあてて、匂いをかぎながら喜ぶ娘たち、吸いかけのタバコをせがむハダシの子供、ライターをみて逃げ出す男、ピカピカ光る爪切りをみて、何か判
らずヒネリ廻す将校と、あらゆる階級の老若男女が集ってきた。
そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。
勤労者と農民の祖国と謳い、真の自由の与えられた、搾取のない国と誇る社会主義国家の現実は、こうしてわれわれに、ただ驚異を与えながら展開していった。もちろん、流刑植民地という極北の特殊地帯シベリアの、一炭坑町チェレムホーボにあって、抑留二年の間に私が見聞したことどもが、あの独ソ戦を戦い抜いた、ソ連の姿のすべてでないことはいうまでもない。
日本人の入ソ以来、軍の被服は街にはんらんした。男も女もカーキ色の軍服を着ている。被服類の不足は一番はげしく、われわれも収容所内では、ソ連の将校や兵隊に奪われるため、どんどん地方人たちと交換をした。
雨具などもちろんなく、二年間に街中でコーモリをさした人を二人みかけただけで、男も女もみな雨にぬれながら平気な顔をして歩き、また働いていた。クツ下はパルチヤンキと呼ぶ四角い布で、それを巧みに足に巻いた。粗衣という言葉があるが、彼らには粗衣もなかった。
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「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働かないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。