私の略歴を読んで、自分の息子と同じ部隊だと知った義母は、消息のない息子の安否をたずねて、私の前に現れた。当時の私のもとには、毎日沢山の手紙と訪客とがあったのである。人妻も、老母も、若い娘も、その肉親と私とが、同じ師団だというだけで、何か消息がと、たずねてきていたのだった。
彼女の話を聞いて、私は保定で同期生だった彼の家族と知って驚いた。彼は師団司令部付だったので、或は? という、暗い予感がしないでもなかった。その老母の傍らで、心配そうに、マユをひそめている若い娘、その人が彼の妹だと紹介された。和子といった。
社に復職した私は、当然、また社会部へともどった。いくらかずつか、ずっと続いていたサラリーをためて、私が再び着ることはあるまいと、兵隊に征く前に、全部質屋にブチこんで飲んでしまった背広を、私の母が全部請出していてくれた。
幸い、戦災にもあわず、住居と衣類と、そして職も失われていなかった私は、いわゆるツイている方だった。
恵まれた再出発に、私はすっかり気負いたって、エライ新聞記者になりたいと願っていた。社の同期生はタッタ一人。そして学生仲間たちは、多く戦死し、女は嫁に行き、仕事に熱中する以外に、私には、興味を引かれる何ものもなかったのだった。
サツ廻り記者
印象記の結ぶ恋
当時、私は次兄の家の二階に、いわば下宿していた。次兄は早稲田の助教授をしていて、朝早く夜早い生活である。ところが、まだ夕刊のない時代なので、新聞記者の生活は、朝遅く夜も遅いという、生活のズレがあったのである。
深夜帰宅して、寝ている兄や義姉に玄関のカギをあけてもらうのは、大変心苦しいことだったが、住宅難時代なので、アパートはおろか、下宿さえもなかった。私はようやく結婚しようかと考えるようになった。
長い間、外地で生活してきた私には、まだモンペや軍服が銀座の表通りを歩いていて、少しもおかしくない日本だったけれど、女の人が美しく見えて仕方がなかった。第一、ナホトカ港で、引揚船の舷門に立って出迎えてくれた、日赤の看護婦さんの美しかったことは、それこそ眼も眩むばかりであった。
本社勤務の遊軍記者をしていて、帝銀事件だ、寿産院だと、いろんな事件が次から次へと起る
のに追廻されながらも、私は、まだ消息さえなくて私に問合せてくる留守家族のために、調査しては手紙の返事を書き、慰めたり励ましたりしていた。