最後の事件記者 p.304-305 私自身が書いた〝スパイ誓約書〟

最後の事件記者 p.304-305 だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。
最後の事件記者 p.304-305 だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。

「何? スパイだって?」
「ハイ。きっと、アメリカ側も、一生懸命になって、その摘発をやっているに違いないと思います。米ソの間にはさまれて、日本人は同胞相剋の悲劇を強いられているに違いないと思います。だから、大きな社会問題でもあるはずですし、戦争が終ってまだ数年だというのに、もう次の戦闘の準備がはじまっていることは、日本人にも大きな問題です」
「それで、調べ終ったら、どうするつもりだね」
「もちろん、書くのです。書き方には問題があると思いますが!」
「書く? 新聞の記事に? ウン。書く自信があるか」
「ハイ。私は新聞記者です」

「ウーン。よし。危険には十分注意してやれよ」

部長は許可してくれた。それから、私のソ連スパイ網との、見えざる戦いがはじまったのであった。もっとも、すでに私には、相当程度のデータは集っていたのである。何故かといえば、例の処女作品「シベリア印象記」で集ってきた投書について、消息一つない各個人の在ソ経歴を調べていたことや、「代々木詣り」一カ月間のデータの中から、めぼしいものが浮んでいたのである。

だが、それにもまして、私自身が、いうなればソ連のスパイであったからだ。だからこそ、引揚者の土産話を聞けば、何かピンとくるものがあるのだった。

私の名は、ソ連スパイ! 私が、「このことは、内地へ帰ってからも、たとえ、肉親であっても、決して話しません」と、私自身の手で書き、署名さえした、〝スパイ誓約書〟が、今でも、ソ連国内のどこかの、秘密警察の極秘書類箱に残されているのだ。「…もし、この誓約を破ったならば、ソ連刑法による如何なる処断をうけても構いません」と、死を約束した一文とともに。

モスクワから来た中佐

「ミータ、ミータ」兵舎の入口で歩哨が、声高に私を呼んでいる。それは、昭和二十二年二月八日の夜八時ごろのことだった。去年の十二月はじめに、もう零下五十二度という、寒暖計温度を記録したほどで、二月といえば冬のさ中だった。

北緯五十四度の、八月末といえばもう初雪のチラつくこのあたりでは、来る日も来る日も、雪曇りのようなうっとうしさの中で、刺すように痛い寒風が、地下二、三メートルも凍りついた地面の上を、雪の氷粒をサァーッ、サァーッと転がし廻している。

もう一週間も続いている深夜の炭坑作業に、疲れ切った私は、二段ベッドの板の上に横になったまま、寝つかれずにイライラしているところだった。

——来たな! やはり今夜もか?

今まで、もう二回もひそかに司令部に呼び出されて、思想係将校に取調べをうけていた私は、直感的に今夜の呼び出しの重大さを感じとって、返事をしながら上半身を起した。

「ダー、ダー、シト?」(オーイ、何だい?)

第一回は昨年の十月末ごろのある夜であった。この日は、ペトロフ少佐という思想係将校が着任してからの第一回目、という意味であって、私自身に関する調査は、それ以前にも数回にわたって、怠りなく行われていたのである。

作業係将校のシュピツコフ少尉が、カンカンになって怒っているゾ、と、歩哨におどかされながら、収容所を出て、すぐ傍らの司令部に出頭した。ところが、行ってみると、意外にもシュピツコフ少尉ではなくて、ペトロフ少佐と並んで、格幅の良い、見馴れぬエヌカー(秘密警察)の中佐が待っていた。

私はうながされて、その中佐の前に腰を下した。中佐は驚くほど正確な日本語で、私の身上調 査をはじめた。