私に舞いこんできた幸運は、このスパイ操縦者の政治部将校、ペトロフ少佐の突然の転出であった。少佐は約束のレポの三月八日を前にして、突然収容所から姿を消してしまったのである。
ソ連将校の誰彼にたずねてみたが、返事は異口同音の「ヤ・ニズナイユ」(私は知らない)であった。もとより、ソ連では他人の人事問題に興味を持つことは、自分の墓穴を掘ることなのである。それが当然のことであった。私は悩みつづけていた。
不安と恐怖と焦燥の三月八日の夜がきた。バターンと、バラッキの二重扉のあく音がするたびに、「ミータ」という、歩哨の声がするのではないかと、それこそ胸のつぶれる思いであった。時間が刻々とすぎ、深夜三番手の集合ラッパが鳴り、それから三、四時間もすると、二番手の作業隊が帰ってきた、静かなザワメキが起り、そして、一番手の集合ラッパが鳴った。
夜があけはじめたのであった。三月八日の夜が終った。あの少尉も転出したのだろうか。重い気分の朝食と作業……九日も終った。一週間たち、一カ月がすぎた。だが、スパイの連絡者は現れなかった。
私の場合は、こうして、スパイ網のトバ口だけでレポは切れ、その年の秋には、ナホトカでダメ押しのレポも現れないまま、懐かしの祖国へ帰ることができたのであった。
そうしてはじまった、このスパイ網調査であった。すると……。インターを叫ぶ隊伍の中に見える無表情な男の顔、復員列車のデッキにたたずんで考えこむ男の姿、肉親のもとに帰りついてから、ますます沈んでゆく不思議な引揚者、そして、ポツンポツンと発生する引揚者の不可解な死——或者は故国を前にして船上から海中に投じ、或者は家郷近くで復員列車から転落し、また或者は自宅にたどりついてから縊死して果てた。
私はこのナゾこそ例の誓約書に違いないと感じた。駅頭に、列車に、はては舞鶴にまで出かけて、引揚者たちのもらす、片言隻句を、丹念に拾い集めていった。やがて、その綴り合わされた情報から、まぼろしのように〝スパイ団〟の姿がボーッと浮び上ってきたのだった。
やがて、参院の引揚委員会で、Kという引揚者がソ連のスパイ組織の証言を行った。その男は「オレは共産党員だ」と、ハッタリをかけて「日本新聞」の編集長にまでノシ上った男だった。
しかし、さすがに怖かったとみえ、国会が保護してくれるかどうかと要求、委員会は秘密会を開いて相談したあげくに、証言を求めたのだった。
記者席で、この証言を聞いた私は、社にハリ切って帰ってきて、竹内部長にいった。
「チャンスです。この証言をキッカケに、このスパイ団のことを書きましょう」
「何をいってるんだ。今まで程度のデータで、何を書けるというんだ。身体を張って仕事をするのならば、張り甲斐のあるだけの仕事をしなきゃ、身体が安っぽいじゃないか」
若い私はハヤりすぎて、部長にたしなめられてしまった。それからまた、雲をつかむような調査が、本来の仕事の合間に続けられていった。
魂を売った幻兵団
すでにサツ廻りを卒業して、法務庁にある司法記者クラブ員になっていた私は、昭電事件、平沢公判、吉村隊長の〝暁に祈る〟事件と追いまくられてもいたのである。