データは完全に揃った。談話も集まった。私たちは相談して、このスパイ群に「幻兵団」という呼び名をつけたのであった。そして二十五年一月十一日、社会面の全面を埋めて第一回分、「シベリアで魂を売った幻兵団」を発表した。それから二月十四日まで、八回にわたって、このソ連製スパイの事実を、あらゆる角度からあばいていった。
大きな反響
反響は大きかった。読者をはじめ、警視庁、国警、特審局などの治安当局でさえも、半信半疑であった。CICが確実なデータを握っている時、日本側の治安当局は全くツンボさじきにおか
れて、日本側では舞鶴引揚援護局の一部の人しか知らなかった。
「デマだろう」という人に、私は笑って答える。
「大人の紙芝居さ。今に赤いマントの黄金バットが登場するよ」
紙面では、回を追って、〝幻のヴェール〟をはがすように、信ぴょう性を高めていった。
「よく生きているな」
親しい友人が笑う。私も笑った。
「新聞記者が自分の記事で死ねたら本望じゃないか」
ただ、アカハタ紙だけが、ヤッキになってデマだと書いていた。読売の八回の記事に対し、十回も否定記事をのせ、左翼系のバクロ雑誌「真相」も、〝幻兵団製造物語〟というデマ記事で、私の記事を否定した。私にはその狼狽ぶりがおかしかった。そして、それから丸三年たって、二十七年暮に、鹿地・三橋スパイ事件が起って、「幻兵団」の実在が立証されたのであった。
アメリカ側の引揚者調査機関、NYKビルがその業務を終った時、チェックされた「幻兵団」員は、多分私もふくめて七万人にものぼっていたのである。この事件は、私の新聞記者としてのいわば出世作品であった。
この記事を書いた当時、私の妻は妊娠中で三月に予定日を控えていたのだった。前年の暮ごろから、私の取材が本格化して、ソ連引揚者のある人などを、私の自宅へ伴ってきて話を聞いていたので、彼女も私がどんな仕事をしているか、良く知っていた。何しろ六畳一間の暮しである。
「私の名前を出さないという約束をして下さいね」
その男は、念を押してから、とうとう誓約にいたるまでの経過や、マーシャと呼ぶ女士官の〝また、東京で、逢いましょう〟という耳もとでの、熱いささやきまで語った。彼は東京での話になると、日比谷の交叉点で、そのマーシャそっくりの女をみかけて、ハッと心臓の凍る思いをした、とまでいった。私は彼が、本物のマーシャとレポしたに違いないと、にらんでいた。
「どうして、名前が判ったらマズイんですね。思い切って、すべてを発表したらどうです。マーシャのレポや合言葉も……」
彼は黙っていた。やがて、ボツンと一言だけいった。
「殺されるかもしれないから」
彼の表情は、全く真剣そのもので、思いつめていた。人間の恐怖の瞬間を、私も、妻もみた。彼女は、私の仕事が、そんなように、大変な危険につながることを覚った。その夜、彼女は自分の大きなお腹に眼をやってから、私に話しかけてきた。
「ねエ、そのスパイの仕事、危いらしいじゃないの、大丈夫?」
もう、お腹の中の新しい生命は、胎動をはじめていた。
「判ンないさ。やってみなくちゃ。でも、こんなやり甲斐のある仕事は、そうザラにはないンだよ」
「どうして、あなたがやらなきゃならないの?」