「あのような激しい、占領政策批判の記事を?」と、私は内心、部長の企画に眼を丸くして驚いた。しかし、この原稿は社の幹部に反対された
らしく、部長もついに諦めたらしかった。
(写真キャプション クラブ・マンダリンの国際賭博は読売の特ダネ)
夜の蝶たち
こんな部長の企画が、独立後半年も続いていた占領国人の特権猶予に対して、敢然と批判を加える、新しい企画になって、続きもの「東京租界」が実を結んだ。
その年の初夏から、警視庁の記者クラブへ行っていた私は、この企画のため、辻本次長に呼び返された。といっても、もちろん、クラブ在籍のままである。その年の春、チョットした婦人問題を起して、クサリ切っていた私を、気分一新のため警視庁クラブへ出し、そして、初仕事ともいえるのが、この「東京租界」であったのである。
当時その問題のため、三田株は暴落して、彼は再び立ち上れないだろうとまで、仲間たちからいわれていた。そうなると、人情紙風船である。私に尾を振っていた連中も、サッと見切りをつけて、素早く馬をのりかえるのであった。菊村到の送別会が開かれなかったということでも、新聞社の空気というものが、うなずかれるであろう。
私は辻本次長に、私を起用してくれたことを感謝しながらも、条件をつけたのである。
「多勢の記者とやるのなら、イヤです。私一人でやらせて下さい。ただ、英語が必要だから、牧野者(文部省留学生で、一年間オハイオ大学に留学していた)を、協力者として下さい。それにもう一つ、時間と金を、タップリ下さい、必らずいい仕事をして、思い切り働いてみせます」
私の願いは叶えられて、九月に入ると間もなく、私は自由勤務となった。私は、私が再起できないという、部内の流言に対して、仕事で来いと、張り切っていたのであった。
十月二十八日、日本独立の日から六カ月の後、ついに在留外国人たちの、一切の特権は否認された。猶予期間が終ったのである。
それまでは、連合国人と第三国人とにとって、日本は地上の楽園だったのである。一番大きな特権は〝三無原則〟と呼ばれた、無税金、無統制、無取締の、経済的絶対優位であった。
その結果、日本はバクチや麻薬、ヤミ、密輸、売春といった、植民地犯罪の巣となりはてていた。それは、読売がいみじくも名付けた、〝東京租界〟そのものであった。
九月はじめ、この企画を与えられて、まず不良外人の一般的な動静から調べ出した。内幸町の富国ビル、日比谷の三信ビル、日活国際会館という、彼らの三大基地をブラつく毎日がはじまった。伝票を切って、小遣銭はタップリある。私はそのビルのグリルやバー、レストランのパーラーで、のんびりと構えていた。
長身の私は、一見中国人風なので、富国ビルあたりから出てくると、「ハロー・ボーイさん! シューシャン!」と、クツみがきに呼びかけられるほどだった。
夜は夜で、彼らの集まるナイト・クラブ、赤坂のラテン・クオーター、麻布のゴールデン・ゲイト、銀座のクラブ・マンダリンや、ディンハオなどで、租界に巣喰うボスたちの生態をみつめていた。こんな時に一番協力してくれたのは、ホステスと呼ばれる、いわば外人用〝夜の蝶〟た
ちであった。