入国拒否者の入国ヤミ取引
まず第一に、警視庁の綱井防犯部長に当って確認した。バクチは後の所管である。彼はおだや
かに答えた。
「うん。入国拒否者のルーインが、君のいう通り入国していたのは事実だ。しかし、これには、日比賠償やモンテンルンパの戦犯関係など、〝政治的〟配慮がある。君が取材してきた手腕には敬意を払うが、記事に書く時には、充分に、〝国際的〟な配慮を持ってもらいたいと思うネ」
私を良く知っていた防犯部長は、おろかなことはいわずに、率直に事実を認め、忠告してくれたのである。
私はそれから、外務省に倭島アジア局長を訪ねた。局長は驚きあわてて私に頼みこんできた。
「キミ、どこでそんなことを調べてきたンだネ。困るなア。これにはいろいろとワケがあるンだから、何とか書かないでほしいナ。頼むよ。……キミ、書いたら国際的な問題になるンだ。モンテンルンパなんだ」
私は原部長と相談して、書く時期をみることになった。外務省のヤミ取引、というか、倭島局長のマニラ在外事務所長時代のヤミ取引で、ルーインのヤミ入国という特ダネは、まだしばらく秘められることになった。
だが、書くべき時は間もなくやってきた。そして、この事実を重視した、衆院法務委員会が、社会党猪俣代議士の質問で追及した。その当日、委員会の記者席に座っていた私の前を、倭島局長が通りすぎようとした。彼は政府委員として、この事件の責任者だ。
フト、彼の視線に私の姿が入ったらしい。彼は一、二歩、通りすぎて立止った。クルリと振り
向くと、グッと私へ憎悪の目を向けてニラミすえた。そして、政府委員席へと歩き出した。猪俣委員の鋭い質問がはじまるや、局長は、新聞のコラム欄では、「取引を外交と思いこんでいる」とヤジられて、すっかり男を下げてしまったが、これが二十八年七月九日のこと。
やがて、八月になると、ルーインが局長へ手紙をよこして曰く。
「私は、貴殿が、私の入国の協力者として、恥をかかれたとお思いなら、心からお詫び申しあげます……」
この「東京租界」は、十月二十四日から十一月六日までの間、タッタ十回ではあったけれども、続きものとして連載された。まだまだ材料はあったのだが、十一月十日の立太子礼のため、打切らざるを得なかった。
これは、独立直後の日本で、占領中からの特権を、引続き行使して、その植民地支配を継続しようとした、不良外人たちに対し、敢然と下した、日本ジャーナリズムの最初の鉄槌であった。
そして、この続きものをはじめとするキャンペーン物で、読売社会部は、文芸春秋の菊池寛賞新聞部門第一回受賞の栄を担ったのであった。