最後の事件記者 p.390-391 私が幻兵団の記事を書いた時

最後の事件記者 p.390-391 三橋もまたソ連代表部員クリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、CICに摘発されるや、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。
最後の事件記者 p.390-391 三橋もまたソ連代表部員クリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、CICに摘発されるや、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。

スパイは殺される

三橋事件の発生

鹿地不法監禁事件がもり上ってきた。二十七年十二月十一日、斉藤国警長官は、参院外務委でこう答弁した。

「鹿地氏は現に取調べ中の事件と、直接関係を持っている疑いが濃厚である。被疑者は日本人で終戦後ソ連に抑留され、同地において、高度の諜報訓練と、無電技術とを会得した。内地に帰ってから、ある諜報網と連絡して、海外に向って無電を打っていたという疑いが強い。氏名を述べることはできないが、東京の郊外に居住していた人間である」

その日の夕方、私は何も知らないで、警視庁記者クラブから社に帰ってきた。ちょうどそのニュースが、社に入ったところだった。私の顔をみるなり、

「オイ、まぼろし! 長い間の日陰者だったが、やっと認知されて入籍されたゾ」と。

原部長の御機嫌は極めてうるわしく、私は何のことやら判らず、戸まどったような、オリエンタルスマイルを浮べた。やっと、そのニュースを聞いた時には、「何だ、そんなこと当り前じゃ

ないか」と、極めて平静を装おうとしながらも、やはり目頭がジーンとしてくるほどの感激だった。

ちょうど三年前のスクープ、大人の紙芝居と笑われた「幻兵団」が、今やっと、ナマの事件として脚光をあびてきたのだった。これが記者の味わい得る、本当の生き甲斐というものではなくて、何であろう。

私が幻兵団の記事を書いた時、すでに多数の幻兵団が働いており、この三橋もまた、上野池ノ端で、ソ連代表部員クリスタレフとレポしていたのである。そればかりではなくて、すでにCICに摘発されるや、三橋をはじめとして、多数のソ連スパイが、アメリカ側に寝返っていた時代だったのである。

従って、アメリカ側は幻兵団の記事で、自分たちの知らない幻を、さらに摘発しようと考えていたのに対し、全く何も知らない日本治安当局は、何の関心も示さなかった。日本側で知っていたのは、舞鶴CICにつながる顧問団の旧軍人グループと、援護局の関係職員ぐらいのもので、治安当局などは「あり得ることだ」程度だから、真剣に勉強しようという熱意なぞなかった。

そんな時に、当時の国警本部村井順警備課長だけは、礼をつくして「レクチュアしてくれ」といって来られた。千里の名馬が伯楽を得た感じだったので、私はさらにどんなに彼を徳としたことだろうか。

鹿地の不法監禁事件は、三橋を首の座にすえたことで、全く巧みにスリかえられて、スパイ事

件の進展と共に、鹿地はすっかりカスんでしまった。