一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。
ヤキモキしているうちに、米側から本人を直接調べさせるという連絡があり、七月中旬になって、公安調査庁柏村第一部長、警視庁山本公安三課長の両氏が渡米して、ラ自供書をとった。
両氏は八月一日帰国して裏付け捜査を行い、日暮、庄司、高毛礼三外務事務官の検挙となったのだ。もっとも五月には、米側の取調べ結果が公安調査庁には連絡された。同庁では柏村第一部長直接指揮で、外事担当の本庁第二部員をさけ、関東公安調査局員を使って、前記三名の尾行、張り込みをやり、大体事実関係を固めてから、これを警視庁へ移管している。
この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。東京外語ロシア語科出身、通訳生の出身、高文組でないだけに、一流のソ連通でありながら、課長補佐以上に出世できない同氏の自殺は、一連の汚職事件の自殺者と共通するものがあった。現役外務省官吏の自殺、これは上司への波及をおそれる、事件の拡大防止のための犠牲と判断されよう。そして犠牲者の出る事実は、本格的スパイ事件の証拠である。
スパイは殺される
ソ連の秘密機関は大きく二つの系統に分れていた。政治諜報をやる内務省系のMVDと、軍事諜報の赤軍系のGRUである。三橋のケースはGRU、ラ中佐はMVDであった。第二次大戦当時、ソ連の機関に「スメルシ」というのがあった。これはロシア語で、〝スパイに死を!〟という言葉の、イニシアルをつづったものだ。
だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遺書などあり得ようはずがない。
高毛礼元事務官の一審判決は、「懲役一年、罰金百五十万円」である。彼は報酬として四千ドル(百四十四万円)をソ連からもらっているので、この罰金がついたのである。納められなければ一日五千円に換算して、労役場へ留置する、とあるから、これが三百日になる。合計して一年十カ月の刑である。日暮と同じ程度の刑だから、なぜ妻子を残して死なねばならないのだろうか。
終戦時の在モスクワ日本大使館。そこでは佐藤尚武大使以下、在留日本人までが館内に軟禁されていた。そして、この軟禁につけこんで、ソ連側ではスパイ獲得工作の魔手をのばしてきた。「幻兵団」と同じである。
これは、ラストボロフの自供した、ソ連代表部のスパイ一覧表をみれば明らかだ。ラ中佐の亡命時に、狸穴の代表部直結のスパイは四十八名いた。これを所属別に分類すれば、MVD四十三名、GRU三名、海軍二名、人種別では、日本人三十五名、白系ロシヤ人七名、その他の外国人六名となっている。
三十五名の日本人をさらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日幕、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく
「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。