最後の事件記者 p.430-431 「事件記者と犯罪の間」という手記

最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。
最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

新聞記者というピエロ
我が名は悪徳記者
ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。
スクラップの一頁ごとが、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」

に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、こういうことだ。

新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもってノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励でありあるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がやってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞やに対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と、新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」

「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」

「アッ、そうか!」

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に

挨拶をした。