……『新聞が出ました。いま、再刊一号が出ました』
馬場は電話口で声をあげて泣いた。
『ありがとう。ありがとう。ありがとう』」
朝日のストについて細川隆元が「朝日新聞外史(騒動の内幕)」(昭和四十年、秋田書店)を書いているが、花見と細川の筆力の違いもさることながら、終戦直後と昭和元録という、時代背景の差もあって、この読売争議ほど、朝日のはドラマチックではない。
もっとも、朝日もまた、終戦直後には、民主化騒動を経ているが、読売のそれにくらべると、正力の下獄などという、緊迫感の盛り上りに欠ける。さすがに読売は〝事件の読売〟だけのことはあると、改めて、花見の文章に酔ったほどであった。
読売と朝日とが、戦後、このような騒動によって、体質の改善が行なわれたのに対し、毎日がストの洗礼を経なかったことで、今日の朝読—毎日の差がついたという人もいる。しかし昭和二十八年に青地晨が、その著の「好敵手物語」に、朝日—毎日をとりあげ、「部数において朝日四百三万九千余、毎日四百五万五千余と、読売(東京)百八十九万七千余と産経百二十一万余部=二十七年二月現在、新聞協会編ザ・ジャパン・プレスより。但し数字は公称=を、大きく引きはなしている朝毎両紙の王座が、にわかにゆらぐものとは思えないのである」といっているが、青
地の、読売と正力に対する認識不足は嘲うべきであった。
元朝日記者の酒井寅吉もまた、文芸春秋誌の「新ライバル物語」(昭和四十年十一月号)で、朝日—毎日をとりあげているが、「……読売の経営難は朝毎以上。……この値上げ競争で結局、弱小新聞はふるい落され、二大新聞(朝毎をさす)の独占化へ進んでゆく道が大きく開かれることになる」と、観測を誤っている。
務台事件後の読売の一番困難な時期、つまり、酒井寅吉が、この〝読売の経営難は朝毎以上〟と書き、朝毎の二大紙独占化を予想した時点で、編集局長となった原四郎について、さらに語らねばならない。なぜなら、予想はくつがえされて、それからわずか四年後に朝日—読売の独占化時代に突入したからである。
強まる「広報伝達紙」化
読売編集局における、局長の原四郎を評して、〝一犬実に吠えて万犬虚を伝う〟というべきである、と述べたのは他でもない。