正力松太郎の死の後にくるもの p.178-179 ささやかれていた〝ポスト・ショーリキ〟

正力松太郎の死の後にくるもの p.178-179 「正力なきあとの読売は、どうなるであろうか」四十三年秋から、〝正力コンツェルン〟に現れはじめている人事の動きを眺めてみると、正力はすでに関連事業の後継者の肚づもりをしていたことがうかがわれる。
正力松太郎の死の後にくるもの p.178-179 「正力なきあとの読売は、どうなるであろうか」四十三年秋から、〝正力コンツェルン〟に現れはじめている人事の動きを眺めてみると、正力はすでに関連事業の後継者の肚づもりをしていたことがうかがわれる。

私が、〝感慨をこめて〟この記事をみつめていたというのは、その小さなできごと——削除の指示があったればこそなのであった。

常日ごろから、といっても、私が読売記者の肩書を離れて、新聞というものを客観的に眺め得

るようになってからだが、「新聞界の大偉人・正力松太郎」と、私は正力のことを畏敬の念をもって語る。その正力松太郎と、〝正力コンツェルン〟との苦悩が、一度発表した談話の一部分を再び削除するという、〝小さなでき事〟にまざまざと現れていると私は感ずるからである。

読売について論じようとするならば、正力松太郎と二人の息子、亭と武。女婿の小林与三次、さらに〝正力コンツェルン〟とよばれる、系列下の数多い事業という、その客観情勢の検討から始められなければならない。

某誌に書いた朝日論のために、私は会社側として渡辺誠毅取締役にインタビューして、結びの言葉としてこう書いた。

「渡辺は、このときはじめて、静かな闘志を瞳に輝やかせて、答えたのである。
『部数競争が、新聞のすべてではない。しかし、部数がトップであるということは、大切なことだ。社員の士気からいっても、朝日はこの競争にも勝ち抜く』と」

正力松太郎という人物を、「偉大なる新聞人」と讃えるのに、誰が反対できるであろうか。この渡辺誠毅、経済部記者の出身から、広岡社長の後継者と目され、四十三年十二月二十六日に取締役、さらに四十四年三月に常務となったほどの人物である。

その渡辺をして、闘志をわかせて「この競争にも朝日は勝ち抜く!」といわしめるほどの、読

売新聞の部数の伸びの脅威、四十三年十月現在のレポートによれば、朝日の五百六十一万部強に対し読売は五百二十一万部弱と、その差は四十万にすぎないという追い上げ方である。

正力松太郎。明治十八年四月十九日生れ。明治四十四年七月、東京帝大独法科卒業、大正十二年十二月、警視庁警務部長。同十三年二月、有限会社読売新聞社長となった正力は、当時わずかに二万の発行部数だったものを、十年を経て八十万、十二年で百万、十五年で百五十万という部数に育てあげたのであった。

追われる朝日は明治十二年の創刊。百年の歴史の朝日を、五十年で追いつめているのであるから、正力の偉大さがわかる。そして、私の判断では、読売が朝日を追い抜いて、日本一の発行部数を誇る日の勝負は、近々のことだと思う。

そして、多くの人々の間でささやかれていたことは、「正力なきあとの読売は、どうなるであろうか」ということである。〝ポスト・ショーリキ〟——前記の引退談話は、「八十三歳だがきわめて元気で、(元気でいる)そのうちに大テレビ塔を完成……」というのだが、四十三年秋から、〝正力コンツェルン〟に現れはじめている人事の動きを眺めてみると、正力はすでに関連事業の後継者の肚づもりをしていたことがうかがわれる。

読売新聞社(東京)を中心に、北海道と北陸は支社となって、東京管内にある。大阪読売新聞社は別法人で独立し、西部(北九州市)は読売興業の経営。読売巨人軍も同様に、読売興業の新聞部、野球部にそれぞれ属する。報知新聞社、報知印刷所もまた別法人。日本テレビ放送網、よ

みうりランドなど、正力が会長となるか、読売新聞の重役が役員に列しているかなどで、これらを総称して〝正力コンツェルン〟とよばれているものだ。