パーティの式辞原稿で大会社の専務が退社するとは、このルーモアが示すところに、現在の日本テレビの体質があるのであるが、それは後述しよう。
ともかく〝地すべり〟は始まり出した。そのころ、四十三年十月二十四日には、正力タワー
(日本テレビ大テレビ塔)の起工式が行なわれており、同十一月二十九日の株主総会では、取締役九人の増員を決め、正力亨報知新聞社長が、新取締役に加わり、副社長に選任されたのであった。と同時に、正力武は日本テレビ取締役のまま、株式会社よみうりランド常務取締役となり、管理部長を兼ねることとなった。
つづいて、十二月三十日に報知新聞は、臨時株主総会と取締役会を開き、正力亨社長と大江原矯専務の辞任を承認し、新社長に菅尾且夫(読売西部本社専務)を選んだ。傍系の報知印刷所も享会長と棚橋一尚社長の辞任を承認、岡本武雄(元産経常務)を社長に選んだ。
つまり、これで、亨は報知新聞社長、報知印刷会長を共に退陣し、報知との縁は全く切れたわけである。読売興業やランドの平取をのぞけば、日本テレビ副社長一本になったということになる。ついでながら、大江原は旧報知(昭和十八年の読売と報知の合併以前をさす)出身で、戦後の読売と報知分離時代から、一貫して旧報知人代表の格で、報知の経営に関与してきたのであったが、彼の退陣で、もはや〝旧報知〟という感触は全くなくなったことを意味しよう。報知印刷を去った棚橋は、読売の編集庶務部長、地方部長などを経た記者出身であった。
この報知関係の人事異動の意味するところは大きい。さきにのべた〝報知は亨、日本テレビは武〟は、全くのハズレだったのである。冒頭に書いた正力松太郎と正力コンツェルンの苦悩とは、このことなのである。
報知新聞のドロ沼闘争
麹町から国会へ抜ける隼町一帯は、そのころのどかな春の陽気とはウラハラな、重苦しい雰囲気が立ちこめている。報知新聞があるからである。社屋玄関には、「労協改悪反対」「組合つぶしをやめろ」「岡本体制、断固粉砕」などのアジビラが、不動産屋の入口さながらに貼りまわされ、赤、青の腕章の若者たちが徘徊している。近くの喫茶店に立ち寄っても、この腕章たちがタムロしていて、コーヒーをたのしむ気にもなれない。報知労組のドロ沼闘争のせいである。五月三日付の報知は休刊になったほどだ。
報知の戦後史について語らねばならない。戦時中の新聞統合で、「読売報知」となったものであるが、読売の銀座の本社ビルは焼け、現在の十合デパートの場所にあった報知の社屋は残った。読売はそこで編集されていた。やがて、報知が娯楽紙として再刊されることになって、社会部長から企画調査局長となっていた竹内四郎が、社長として赴任した時は、銀座の本社ビルの裏、東電銀座支社隣りの木造二階建てバラックの社屋であった。
読売の部長、局長として、大型車に乗っていた竹内は、社長になったために、田舎医者がよく
乗っていた細い車輪のダットサンの小型車に、きゅうくつそうに乗らねばならなかった。当時の報知にはこんな社長乗用車とサイドカー程度しかなかったようだ。