読売の部長、局長として、大型車に乗っていた竹内は、社長になったために、田舎医者がよく
乗っていた細い車輪のダットサンの小型車に、きゅうくつそうに乗らねばならなかった。当時の報知にはこんな社長乗用車とサイドカー程度しかなかったようだ。
床のキシむ裏二階の社長室は、昼間から電燈をつけねばならなかった。読売では冷遇されていた、といわれる竹内は、この社長室に陣取って、〝報知独立王国〟を悲願とした。当時、関節の奇病に倒れ、やはり不運をカコっていた、竹内社会部長当時の筆頭次長であり、文化部長を経ていた森村正平を、半身不随の身体のまま、報知編集局長によんで、竹内—森村コンビの「報知新聞」が出された。業務面は、さきの大江原が協力した。報知は折からのスポーツ・ブーム、レジャーブームにのって、グングンと部数をふやした。竹内は社会部時代の旧部下を好んで報知によび、竹内体制を固めていった。
竹内の後任として、文化部長から社会部長に着任した原四郎が、やがて、読売の編集総務となり、出版局長へとすすんで、取締役に列した昭和三十三年、竹内はまだ読売本社ではヒラであったし、三十五年になって、ようやく役員待遇となっている。
そんな不満もあったに違いない。竹内—大江原—森村トリオは、ただひたすら報知の再興を念じていたようだ。原稿も、取材も、無電さえも、読売の世話になるな、というのが、竹内—森村の口グセであった。こうして、ダットサンはやがて外車となり、取材のサイドカーも、雨に濡れないセダンとなり、報知の旗をなびかせた取材の車が、銀座を行き交うようになったのである。
現在の平河町の新社屋が竣工して、事実上、竹内は〝報知新聞中興の祖〟となったが、それからまもない昭和三十八年四月二十一日突然に病を得て死んだ。森村もまた、読売本社出版局に帰っていたが、後を追うように、四十三年一月十八日、こうじた宿痾のため、世を去った。
竹内の後を襲って、正力亨が社長となった。亨の経歴をみると、昭和十七年十月、慶大経済を繰りあげ卒業。二十一年五月、王子製紙入社、三十一年六月、読売事業部入社、三十三年五月、関東レース倶楽部取締役、三十四年六月、読売監査役、同十二月、読売興業取締役、三十五年六月、読売取締役、三十七年十二月、読売興業副社長、三十八年五月、報知社長、同六月、報知印刷会長、三十九年読売興業代取専務、四十三年一月、よみうりランド取締役、同十一月、日本テレビ副社長というものである。
竹内の遺した報知の幹部は、ほとんどが読売の編集出身であった。沢寿次編集局長、藤本憲治総務部長、羽中田誠社長室長といった人たちは、みな社会部記者たちである。沢の後任、村上好信は地方部長、棚橋もまた同じである。そして、報知は部数の増加とともに社員もふえて、あの銀座のウラ店の二階を知らない人たちばかりになってしまった。
報知労組が、そして常に共闘する報知印刷労組が、いわゆる〝強い組合〟になってしまって、報知が〝会社でない〟状態にまで陥ってしまった遠因はここにあった。いま、隼町界隈でみる、あのウソ寒いドロ沼闘争の芽は〝中興の祖〟竹内の衣鉢を継ぐものに、人を得なかったというに
ある。