務台の地位と存在とを、客観的に評価するならば、かの四十年の務台事件によって、正力がまだ健在であった当時ですら、「務台あっての」「正力の読売」であることを、内外に認識されたのではなかったか。どうして、その女婿小林副社長と争う必要があろうか。それこそ、毛を吹いて
傷を求むるの愚、といわざるを得ない。
さらにまた、小林側にしてみても、務台と覇を競うべき、何の必然もないのである。現時点で、務台を追放してみても、なんのメリットがあるだろうか。務台を排してまでも、社長の地位につかねばならぬ年齢と健康ではない。まして、新社屋建設の資金、二百億の金繰りなどは、務台を措いて、誰になし得よう。新聞界に日の浅い小林には、到底無理なことである。
毎日新聞において、本田親男から上田常隆へと、社長が交代したのは、一種のクーデターであった。そして、上田は、政権交代のための、暫定社長であったといわれている。だが、毎日の今日の斜陽を招いたものは、このクーデターによって、銀行金融筋に、もっとも信任あつかった、原為雄を失ったからだという、説をなす新聞人もいる。
新社屋完成は二年後。務台に花をもたせて、ポスト・ムタイの構想を描くのに、小林にとって、三年、五年を待つのは、少しの難事ではあるまい。しかも、九月十三日付の読売PR版をみると、八月二十九日の地鎮祭で、「クワ入れする小林副社長」の写真が掲載されている。務台は、それだけの礼儀をわきまえた紳士である。
こうみてくると、週刊誌記者が、〝読売の跡目争い〟を、興味本位に書き立てようとしても、ケムリすらないのである。では、どうして、務台の〝読売精神〟作興への檄が、このようにネジ曲げられるのであろうか。
この時、示唆に富んだ一本の外電がある。別項で解説した、岩淵辰雄のいう〝疑い深くなった正力〟にも似た話である。
「米国に亡命したスターリンの娘、スベトラーナさんが、今月末『わずか一年』と題する新しい本を出版する。彼女は、新著でもスターリン首相を『冷酷ではあったが、きちがいではなかった』とかばっている。
同女史によると、スターリンは一九三〇年代の粛正のときには、正気を失わず、反対派を弾圧しただけだった。だが、晩年は病人とおなじで、陰謀がくわだてられているのではないかという、疑惑と妄想になやまされ、少しでも疑いをもつと、忘れることができなくなっていたという」(四十四年九月十九日サンケイ紙)
そればかりではない。務台とガッチリ組んだ編集局長原四郎の存在がある。
新社屋建設の金繰り、朝日との六百万部の大台のせ競争という、苦しく困難な命題を抱えた務台の後釜というのはさておき、「編集局長」のポストなら、オレにだって、という対抗馬の何人かがいるのである。
また、亨、武という、正力の二子をいままでカツいできて、アテの外れた人たちもいるであろう。——それらの人々にとっては、務台—原体制が、まだこれから数年もつづくのでは、自分の年齢、客観情勢からみて、〝出番〟がなくなってしまう、というアセリがあるのではなかろうか。