この事件に、果して「愛」という言葉が使わるべき内容であろうか。百歩譲って、女とガードマンとの〝野合〟を「愛」と表現したとしようか。それにしても、「愛の断絶」でもない。つま
るところ「愛と断絶」の四文字は、文章作法上、何の意味もない、感覚的文字にしかすぎないのである。このような、日本語を乱した感覚的表現は、女性週刊誌が好んでしばしば使う文字であり、文章である。
だがしかし、この記事は、詩でもなければ署名記事でもない。レッキとした新聞文章なのである。五百何十万部も印刷される、大読売新聞の、社会面のトップ記事なのである。
ああ! この乱れ。このような悪文を書いた原稿が、そのままデスクの目を通り、印刷されてしまうのである。これではサンケイを嘲うことはできない。読売でさえ、このように、週刊誌のサル真似の傾向をみせている。〝どうしても新聞記者になりたい〟男のように、彼らが「新聞」に期待するものは、その高い待遇であり、カッコよさにすぎないようである。
「愛と断絶」という、この四文字は、事は小さくみえるのであるが実に、「新聞」の体質変化の具体的現れである。前述したように私の受けたデスクの教育の如きは、さらになく、多少の疑問を感じても、そのまま、この悪文を通すのであろう。
かつて、「社会の木鐸」であった新聞記者が、かくの如く、小手先きの器用さで原稿を書きなぐり、マス・プロ、マス・セールの〝一商品〟と化した新聞に拠る。〝ここが違います〟という、スーパーまがいのキャッチ・フレーズも当然である。
さらに付言するならば、この前文につけられた「狂った残暑」という見出しもまた、全く見当
外れである。これまた、週刊誌の見出しに他ならない。
かつて、原が出版局長時代、昭和三十年代のはじめの新聞週間におりからの週刊誌ブームに対して、日本新聞協会の講師となった原は、こういっている。「週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたため起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったハズだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う」(新聞協会報一三五六号)
この講演から十余年を経て、編集局長となり、完全に局内を掌握し、局長としての抱負がすべて実行可能となった現時点で、事実、新聞は増ページしているにもかかわらず、週刊誌はツブれるどころか、いよいよ花盛りである。そして、その原の部下は、週刊誌のサル真似で、「愛と断絶」などという、正体不明の日本語を、さも〝美文〟らしくトップ記事におりこみ、デスクもまた、それを見逃しているのである。
蛇足ながら、さらにつけ加えれば、同本文記事中には、子殺しの女の夫が、「窃盗容疑で服役中の刑務所……」とある。「愛と断絶」を、女性週刊誌のサル真似と罵倒するのは、この本文記事もからんでのことだ。〝容疑〟で服役するようでは、一線記者たちの素養のほどがしのばれる。刑法も、刑事訴訟法もしらないことからくる、このミスである。
刑法、刑事訴訟法をノゾきもしない、社会部記者の書く〝事件記事〟——これこそ、女性週刊
誌の社外記者たちの書く記事と、軌を一つにしており、感覚で取材し、感覚で執筆しているとしか認められないのである。