もはや、都会における生活形態は、朝メシ抜きの時代になっている。少くとも、通勤のための
盛り場付近での、牛乳の立ちのみ、そばの立ち喰いに変りつつある。つまり朝食の食卓で、新聞に読みふける時代は過去のものとなった、というべきであろう。
朝まだき四時、五時。新聞と牛乳配達の駆けめぐる必然性は、薄れつつあるのだ。電気冷蔵庫の普及が、牛乳配達を不要としてきている。新聞とて同様であるまいか。
生活様式の変化ばかりではない。新聞少年、新聞青年の勤労観の変化も無視できない。山田太郎が、どんなに明るく新聞少年の歌を唱い、国会議員たちが自分の配達した往時を回想し、その社会的、精神的意義をアッピールしたとて、〝新聞少年〟のなり手は殖えはしない。依然として、販売店の人手確保のための苦闘はつづくのである。
この勤労観の変化は無視できない。新聞配達員に、高給を支払えば、人手は心配なく、宅配は確保できよう。値上げした新聞社は、いまから、八十円を配達員に投じて、宅配を確保しようとしているのか。三百部抱えて走る少年が、二万四千円のアップとなるのなら、間違いなく志望者が集まる。
しかし、そうではない。
この八十円の中、雀の涙ほどが配達員に分配されるだけである。これで、どうして宅配確保の値上げといえようか。販売店の労務改善という逃げ口上が用意されている通り、ボスたちの〝餌食〟になるだけの値上げである。タクシー値上げと、全く軌を一にしている。もしも、本当に販
売店主の生活が苦しいのなら、どうして、彼らは団結して、新聞の販売制度の合理化促進を訴えないのか。新聞社別の直販から、共販へと切替えてこそ、不合理な販売経費が節約されるのではないか。
内実は〝便乗値上げ〟である。販売店主たちは、販売制度の合理化は、自分たちの既得権益の侵害であると考えている。自分たちのウマ味への侵略であると感じている。
前述した数字——古い数字だが、一例として読売の朝夕刊セット一部当りコスト七百円というのは、もちろん、紙代、印刷代、編集費、人件費といった、新聞の直接製作費ばかりではなく、販売費も含まれての数字である。では果して販売費を引けば、いくらになるのだろうか。
残念ながら、私の手許に資料がなくて、その内訳を示すことができない。しかし、相当部分が販売費であることは間違いない。つまり、読者はもっと安価に新聞を購読できるにもかかわらず、販売ルートなるものの維持のため、余分な出費を強いられている。新聞にとって、最大の発言者は、時の政治権力でも、金融資本でも、ましてや、広告スポンサーでもない。実に、販売店主とその連合体である。
そして、新聞にとっての、最大の敵は、また実に、販売店主とその連合組織である。新聞はそのために、読者と社会に対して赤面し、かつ、経営を蝕まれているのである。
販売制度の合理化とは、専売制から共販制への切り替えなのであるが、そのために、共同輸
送、共同配達、共同集金などの試験的な手さえ打たれず、各社は必死になって、この宅配確保を打ち出している。