正力松太郎の死の後にくるもの p.278-279 キリリリ、ポンという爽快な配達音

正力松太郎の死の後にくるもの p.278-279 月曜日の朝刊をひろげた時の味気なさ! 新聞の各面とも、鮮度がなくて砂を噛む思いがする。——この時、誰が暁闇にたたずんで、配達少年の足音を待つであろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.278-279 月曜日の朝刊をひろげた時の味気なさ! 新聞の各面とも、鮮度がなくて砂を噛む思いがする。——この時、誰が暁闇にたたずんで、配達少年の足音を待つであろうか。

そして、新聞にとっての、最大の敵は、また実に、販売店主とその連合組織である。新聞はそのために、読者と社会に対して赤面し、かつ、経営を蝕まれているのである。
販売制度の合理化とは、専売制から共販制への切り替えなのであるが、そのために、共同輸

送、共同配達、共同集金などの試験的な手さえ打たれず、各社は必死になって、この宅配確保を打ち出している。

だが、歴史の必然はすでにこの宅配制度の崩壊への歩みを、進めはじめている。第一に先に述べた、生活様式の変化であり、第二は速報制の放棄である。

放棄といえば聞えはいいが、実は奪われたのである。日曜日午前中に朝刊を読み終り、正午のニュースからはじめて、時事ものにチャンネルをあわせ、十一時の最後のニュースを見終ってから、月曜日の朝刊をひろげた時の味気なさ! 新聞の各面とも、鮮度がなくて砂を噛む思いがする。——この時、誰が暁闇にたたずんで、配達少年の足音を待つであろうか。感覚的にいっても、キリリリ、ポンという、爽快な配達音さえ失なわれているではないか。今は、ビタビタ(足音)ガチャリ(郵便受け蓋の金属音)である。

新聞が、真に自由であるためには、この販売店と販売制度という重い桎梏を投げうたねばならない。

さて、私は、八十円の全額が配達員に振り向けられるのでなければ、この値上げこそ、新聞が自らの手で「新聞の自由」をしめつけはじめたのだと、いわねばならない。そして、「宅配確保のため」と銘打ったこの値上げの、値上げ分の決算報告を紙面に公表することを要求したい、と思うのである。

だが、宅配は必ず崩壊する。そして新聞は、再び「紙面でこい」の自由競争の時代にもどらねばならない。「報道の自由」が真に国民の「知る権利」の代理行使であるならば、国民は、朝な夕なに、新聞をえらぶ権利をもっているハズである。その権利を販売制度によって、ネジまげているのが、現在の新聞のあり方である。

聖教・公明両新聞は、朝の家事が終った主婦の手で、午前九時から同十一時ごろの間に宅配されている。一般紙も、この労働力を動員して、宅配希望者には配達料を別途計算して配達すればよい。一般読者には、安い料金の新聞を、スタンドで自由にえらばせるべきである。「宅配は日本独特のよい制度」「スタンド売りにすると部数が安定せず、新聞社の経営を不安にして、乗取られるおそれがある」「外国でも少年の身心鍛練に宅配が行なわている」——これらの値上げ弁明の言葉こそ、「この記事が、この真実が世を正す」(新聞週間標語)というスローガンに恥ずべきである。

さて、〝朝日はアカイ〟という神話をブチこわすため、朝日の実情を中心にして「新聞」を見てきたのだが、この稿の結論をまとめるため、やはり、経営陣と社主側それぞれの〝現実認識〟の度合いを叩かねばならないと考える。そして、広岡知男社長への会見を申しこんだのである。太田博夫秘書室長は、快くその段取りをつけてくれたのであるが、社長は出張不在の故をもって、総務、労務担当の、渡辺誠毅取締役に会うこととなった。