正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 社内での〝立身出世〟の道

正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞めた一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。
正力松太郎の死の後にくるもの p.290-291 では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞めた一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。

さて、これらの問答を通して考えてみるとき、果して「朝日は左翼偏向」であろうか。

答えは、否である。渡辺は「日本の新聞の発生からの体質として『反政府』的、野党精神の伝統があるのだから、それからいっても朝日が特に〝左翼偏向〟しているとは認められない」という。事実である。部外者がそれぞれに、自分の利害の立場から、片々たる現象を利用して、〝左翼偏向〟ときめつけ、〝進歩的朝日〟と称賛するにすぎないのである。

それらの〝利用される〟現象は、すべて、社内事情から表面化してくるものにすぎないのである。出版局のコマーシャリズム、編集局のハネあがり——すべてこれ、社内での〝立身出世〟の道なのである。

もし、本当に〝朝日がアカい〟のであれば、日共秘密党員が指導しているのであれば、共同通信から多くの人材が他社へ流出したように、朝日をあきたらなく思う人物は退社してゆくハズである。では、偏向朝日新聞から、一体、誰が辞めていったか? 敗戦の日、戦争協力の紙面を恥 じて〝大朝日〟を辞め、小新聞〝たいまつ〟を出した一先輩が、一人いるだけである。新聞界最右翼の朝日の高給を、おのれの信念のために投げうった記者の、誰がいるのだろうか。

卒直に、〝経営者〟としての信念を語る渡辺の実力は、笠信太郎でさえ認めざるを得なくて、笠も渡辺を登用したという。その笠でさえ、小和田には「六〇年安保以後の新聞、放送のたどった反動化の指針を示した」と、きめつけられ(前出「潮」別冊冬季号)、旧部下の佐藤信にも、

「常務の職と給与を前にして岩波進歩派グループからぬけた〝安全な思想家〟」と皮肉られるほど(同著「朝日新聞の内幕」)なのである。

朝日が左翼偏向しており、秘密共産党員が紙面をリードしている——これが〝神話〟でなくてなんであろうか。

大体からして、小和田次郎なる〝匿名〟の現役記者は、組織の中で、編集しかみていないのだから、「デスク日記」は書けるかもしれないが、新聞および新聞社というものを、マクロに眺めるには、ヨシのずいから天井をのぞいているようなものである。

六百万部の朝日を実現せんとする、隆々たる社運だから、「このため、広告界との力関係でも、金融資本や政府権力との力関係でも、相対的ながらもっとも独自性を保持しやすい条件におかれている、ということができる」と、単純な考え方をする。

過去五年間(自三十八年度、至四十二年度)の経営数字の一覧表(S銀行調査部調べ)によると、朝日の銀行借入れ金は、部数の伸びに比例して漸増の傾向を見せていることがわかる。

「大阪本社の新築経費の分で、長期借入れ金が増えているのは事実。短期資金がふえるのは、社業がのびているから、これも当然。一番苦しかったのは、広岡専務時代になった昭和四十年ごろ。二本のケイ光燈を一本消し、トイレット・ペーパーさえ節約した時代があった」と渡辺はいう。