正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 「上田社長の人柄はおわかりでしょう」

正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。
正力松太郎の死の後にくるもの p.308-309 上田社長出現は、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。

かつての官尊民卑の時代、新聞記者はタネトリとさげすまれ、河原乞食である役者と同列にみ

なされていた。この風潮は、明治から大正、昭和とうけつがれ、野党精神旺盛な記者稼業は、私学出身者のよりどころであったのだが、戦後の民主化時代は、新聞を花形職業とし、新聞社は一流企業と肩を伍するにいたった。

競争の激しい入社試験で、一定成績以上のものを採用するとなると、答案作成技術のうまい、官学出身者が多くなる。そして、平均値の高い模範社員がふえる。私学出には型破りが多いから、平均値が下がるのである。こうして、毎日から学閥はついえ去った。現役の連中にたずねまわっても、学閥があるというものは皆無であった。

学閥はなくなったが、すでに新しい人事閥が生れていた。学閥なるものは、客観的にも先輩、後輩の仲であり、立証もやさしいが、利害、恩怨、愛憎、好悪による人事閥の説明はむずかしい。しかし、毎日を語るに、この人事派閥にふれずに通ることはできまい。

本田が十三年間もワンマンとして君臨した事実からみて、当然、本田派と反本田派とがあったことはいえる。反本田派の巨頭としては、田中香苗があげられよう。上田社長出現の経緯は、さきに説明した通りで、反本田だからではない。かえって無色であったからである。そして、社長六年におよんで、まだ、上田派なるものができないのだから、いかに彼が社長として適任であったかがわかろう。副社長工藤信一良もまた、派閥の毎日にあって、子分のない人、あるいはつくれない人である。氏の副社長兼大阪代表は、引退の花道と評されている。とすると、師団長クラ

スとなって、いずれも東京系の代表取締役である、営業の梅島楨専務、編集の田中香苗主幹、山本光春常務とならざるを得ない。

田中の反本田に対し、山本常務は本田派と社内でいわれるのだから、田中派と山本派の対立が、やはり大きな派閥を形づくっているのであろうか。株主構成からいって、誰もオールマイティーの切り札をもっていない。出身はみな同じ平社員で、新聞社の門を叩くからには、能力いずれも秀でた人ばかりとあっては、水準の高低を無視すれば、ドングリ揃いでもある。

このような、毎日の特殊事情は、労働組合にとっても、まことに不都合なことであるらしい。つまり、資本家に対して〝闘争〟して〝闘い取る〟といった、悲壮感が一向にモリ上ってこないのである。これは、台所の苦しい毎日にあって、経済闘争をやる場合、一そう奇妙なものになってくる。ある組合幹部はその悩みをこう洩らす。

「上田社長の人柄はおわかりでしょう。会社側は経営内容を卒直に出します。ガラス張りです。と認めていいでしょう。不正も、汚職もなく、またやろうにもできない、貧乏世帯です。重役の給与も、同程度の他の会社にくらべて、まず高くはない。ベース・アップもボーナス闘争も、手の内をみせられては、強いことをいえないではありませんか。御用組合だといわれ、下からの突きあげもありますが、経済闘争といっても、経営努力への叱咤勉励に終らざるを得ないのです」

サエない話だと笑ってはならない。朝日、読売が体験した体質改善の、そのチャンスさえ、つ

かめないのである。毎日の現実の中では〝革命〟はあり得ない。そして、それゆえにこそ、派閥がハビこるのではないかと思えるのだ。