正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 ウントン自供書なるものは米CIAの謀略文書

正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 大森氏は「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。昨年入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。
正力松太郎の死の後にくるもの p.320-321 大森氏は「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。昨年入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。

インドネシアといえば、さる四十一年二月二十四日付毎日夕刊は(シンガポール二十四日UPI)として、シンガポールできいたジャカルタ放送が、インドネシア・クーデターの主謀者ウン

トン中佐が、公判廷で反逆、殺人の容疑を否認、次のように述べたことを報じている。

「公判前の証言は偽りであり撤回する。私は九・三〇事件の主謀者ではない。政府に対し反逆を企てたこともなく、反乱軍の指導者であったこともなく、また共謀に加担したこともない」

私はこの記事が、毎日のみで、朝日、読売にないこと、翌二十五日の両紙朝刊にもないことに、大変興味を覚えた。何故かというと、毎日こそ、昨四十年十一月二十日付朝刊第一面に大きく、「ウントン中佐の自供書を入手」と特筆大書して、大森外信部長の署名記事(断るまでもないが、これは解説ではなく、ニュースである)を掲載しているからだ。つまり、この大スクープの署名記事を、全く否定する外電が、大森なきあとの外信部の手で、同じ毎日に掲載されているということだ。

その大森署名記事に付された、短かい前文によると、「ジャカルタ行きを中止して、東京に帰った。以来約五十日間、九・三○クーデターの真相と、その背景を追究すべく、いくつかのルートを通じ情報を取材してきたが……(中略)……私が入手した自供書によれば……」とある。

この前文で明らかな通り、大森氏は東京にいて、「いくつかのルート」で、取材しており、その結果、「自供書を入手」したのであるが、社会部出身の記者としては、「自供書の写しを入手」と書くべきであったと思う。簡単にいえば、大阪府警がやっている事件の調書(司法警察員調書および検察官調書ともに)は、東京の警視庁にはないし、東京地検にもない。公判がはじまれ

ば、法廷に調書が出されるのだから、関係者は謄写することができる。まだ、公判が開かれていない、昨年十一月二十日の時点に、東京で入手できるのは「ウントン自供書と称される文書」であるはずだ。そして、記者としては、その〝称される文書〟の信ぴょう性の確認をすべきなのであって、その裏付けのため、入手経路やら、信ぴょう性を立証できる人物、もしくは、立証できると信じられる人物の談話、をも併載して、読者の疑問に答えるのが、大新聞ならびに大新聞記者としての、当然の措置であったと思う。

〝殷鑑遠からず〟で、昭和二十五年九月二十七日付朝日新聞は、社会面のトップで、大スクープ「伊藤律会見記」を掲載した。今、この「ウントン自供否定」の小さな外電をみて、毎日新聞ならびに大森外信部長に、それだけの慎重さを望みたかったと、私は考える。というのは、他でもない。私がこの毎日新聞論の取材を進めている時、大森事件の真相をも、同時に調べていたのである。その時、意外な証言者に出会った。

「大森外信部長の退社の真相は、例の大スクープ、ウントン自供書ですよ。ウントン自供書なるものは、米CIAの謀略文書だったのです。彼があれを強引に発表したのち、毎日内部、論説系の人たちの間から、猛然と批判の火の手が上りました。

そして、彼も責任をとらざるを得なくなったのです。紙面の問題だからこそ、狩野編集局長

も、出版担当へと異動させられたのです。論説や編集幹部の間では、CIAの謀略文書を意識して掲載したと、判断されたのです。汚職みたいなものです」