さて、こうしてみてくると、正力コンツェルンの有力メンバーである、日本テレビも報知新聞
も、どうやら、〝正力のモノ〟ではなくなりつつあるようである。ことに、日テレは公開会社だから、なおのことである。
これらは、いずれも〝跡目争い〟などといった、低い次元の人事葛藤の揚げ句というのではなくて、報道機関であって、公共性企業だから、電波や紙面の〝私物化〟には、限度があるということである。
と同時に、大正力という偉人は、偉人であるだけに、ワンマンであり、自己を過信するあまり、他人を信頼しなさすぎた。その結果として、「組織」を無視しすぎたのである。組織のないところには、人材も後継者も育たない。実子の亨でさえ、父親を畏敬すること他人以上であった、ということでも、それがうなずけよう。
「紙面の私物化」が、新聞としての転落のはじまりであり、新聞としての誇りと責任との放棄であることは、いうまでもない。かつて、社内外の批判を招いた、「正力コーナー」はそれ故にこそ問題だったのである。
私は、四十年にそれを批判して書いた。
「昭和十八年の私の入社当時、編集局の中央に立ったまま、叱咤激励する正力の姿は五十九歳、若さと情熱にあふれ、その魅力が若い読売を象徴していた。しかし、戦後の正力は、日本テレビで終った。
国会議員に打って出、原子力大臣となり、勲一等を飾った正力は、読売の発展にすべてを使い果したヌケガラで、〝死に欲〟のミイラ同然になってしまったのである」と。
「正力コーナー」は、こうした、〝死に欲〟の現れとしか考えられない。この傾向は、衆院選出馬のころから現れだし、〝新聞とテレビと野球の先駆者、正力松太郎〟を賛美する、新聞四頁の社報号外となって、全国の読売への折りこみ配布からはじめられた。
当時、選挙違反担当の検事が、苦笑していったものだ。「これは、明らかに違反文書だけれども、読売の全国版に折りこまれているのでは、公判での立証が困難だ。違反もこれだけ大きなスケールでやられると、手が出ないね」と。
やがて、北陸の小都市高岡に、正力の出身地ということで、読売会館が建設され、北陸支社が設けられた。支社はすべて、正力の選挙事務所であり、読売記者とは名のみにして、北陸の寒村で、〝読売ランド〟の宣伝をして歩かねばならないのであった。
北陸支社から、大物支社長自らが電話器を握りしめ、一字一句の間違いがあってはならじと、送稿してくる〝ニュース〟とは、幾度か、当時の読売紙面を飾っているので、読者は御承知であろう。その中の傑作は、三十九年十二月二日付朝刊社会面である。
「先生は大器にして大志を抱かれ、大智大略また大剛……。……また大悟大徳にして、大悲の大士、郷土大恩に浴して……大山を仰ぐ」