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雑誌『キング』p.122上段 幻兵団の全貌 俘虜カードの作成

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.122 上段

しまったからであり、最初の冬の犠牲者の実態は、ソ連当局では握っていない訳である。

こうして、二十一年四月からは、正式な人名調査による、俘虜カードの作成がはじめられた。これは、あくまで純然たる俘虜管理業務の一つとして行われた調査で、俘虜各個人の身上調査が、収容所地区司令部の指揮によって、各収容所(分所)の人事係将校が担当して行われたのである。

この調査は、おおむね二十一年一ぱいを費やして完成された。このころから、ソ連側の対日本人俘虜政策は、ようやく整理され、秩序立って、施設、給養、労働、教育などの面も、改善されて、向上してきた。俘虜政策の整備は、その管理面だけではなく、もちろんNKによる調査も系統だてたのである。

かくして、俘虜カードによる、スパイ団組織の予備調査は、その年齢、階級、学歴、原職などに基づいてはじめられた。この際は、ⒶⒷの区別はまだハッキリとつけられておらず、スパイ要員の摘出を、各収容所付の思想係将校が行った。早い所では、二十一年の暮れから(アルチョム)、普通は二十二年一ぱい、遅い所で二十三年はじめであろう。まれに、二十三年下半期、あるいは二十四年はじめ(タイセット)というのもあるが、それは、鉄道建設、伐採などの奥地の分遣

雑誌『キング』p.121下段 幻兵団の全貌 多数の死亡者を握りつぶす

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 下段

は、連絡の手段を授けて、Ⓑと同様に組織、活用するということもあり得るのである。

二、選考

では、この目的によって二種に大別されるスパイ団の組織は、その構成にあたって、どのような選考が行われただろうか。時期、地区、基準、方法についてみてみよう。

1 時期 ソ連は終戦後にその進駐地域において、莫大な数にのぼる日本軍人を捕虜とし、軍事輸送と並行して、これらの捕虜を続々と本国に輸送した。一般に〝数〟の観念の発達していない彼らは、計算の便を計るために、地方人までを捉えて端数を充当し、千五百名を一列車の単位とした。こうして、受入態勢も何も整っていない本国内に、無計画にただ送りこんで抑留してしまったのである。そのため最初の冬は、混乱と無秩序のうちに莫大な死亡者をだしてしまい、俘虜数を正式に調査する運びになったのは、昭和二十一年四月になってからだった。その原因は、中央部では調査のための努力をしなかったし、下部の各収容所では、多数の死亡者を出した責任をおそれて、その報告を握りつぶして

雑誌『キング』p.121中段 幻兵団の全貌 対米情報を収集

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 中段 監獄見取り図
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 中段 監獄見取り図

か』と説明している。日本の現状を徹底的につかむことは、将来、日本をして二度と対ソ侵略に立たしめないためであり、また、元第三軍参謀の細川直知元中佐のいうように、情報の収集は『参謀の立場からいっても、攻防の有無にかかわらず、当然なさるべきこと』である。そのためには、Ⓑを組織して対米情報を収集しようとするのも、ソ連としては極めて当然のことに違いない。

Ⓑの使命遂行は、日本国土内に限られると述べたが、ある場合にはⒶの目的をも兼ねて行わしめることもあり得るであろうし、Ⓐもまた、在ソ間にのみ限らず、将来必要を生じた時に

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 D氏の投獄された戦犯監獄見取り図
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 D氏の投獄された戦犯監獄見取り図

雑誌『キング』p.121上段 幻兵団の全貌 約七〇万人を抑留

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 上段 収容所略図
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 上段 収容所略図

日本における連絡のための合言葉を授けられており、しかも、数種類の写真を写されていることから、当然連絡を保つ意志がうかがわれるのである。

種村元大佐は、在ソ抑留者の帰還遅延の真の理由として、『ソ連のNKが、日本の現状をつかむために、その全組織をあげて、約七〇万人の日本人を、詳細、綿密に調査するためには、どうしても四年ぐらいの期間が必要であった』と述べ、その証拠には、『細菌戦に関する戦犯事件も、ようやくこのほどまとまったではない

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 バルナウルの収容所略図
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.121 バルナウルの収容所略図

雑誌『キング』p.120下段 幻兵団の全貌 目的は二種ある

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 下段 三、組織の全貌
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 下段 三、組織の全貌

とが、それを裏書きしているのである。

一、目的

この組織の目的とするところは、後に記された誓約書によって明らかにされているが、ハッキリと二種に分類される。

その第一種(以後Ⓐと称す)は、戦犯、反動の摘発を目的とするもので、使命遂行は一応在ソ抑留間のみに限られている。すなわち、終戦と同時に、憲兵、警察官、特務機関員、情報関係者らの、いわゆる前職者は、ソ軍進駐を前にしてそれぞれの履歴を抹殺し、偽名を用いて、一般兵や地方人を装っていた。吉村隊事件の主人公、元憲兵曹長池田重善氏が、妻の実家の姓を名乗って吉村と称していたのがその例である。

スパイ政治の国ソ連が、何十万という日本人を抑留して調査するのに、どうしてスパイ制度を採用しないはずがあろうか。前職者も含んだ戦犯容疑者、反ソ反動分子の摘発と、俘虜政策上からの俘虜情報の入手のため、第一種スパイⒶが組織されたのだ。

その第二種(以後Ⓑと称す)は、第二次大戦後に残った相対立する二大勢力の一つ、すなわち対米情報の入手を目的とするもので、使命遂行は当然日本帰還後とならざるを得ない。すなわち第二種スパイⒷは、工作名(偽名)のみではなく、

雑誌『キング』p.120中段 幻兵団の全貌 モスクワの指令だ

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 中段 三、組織の全貌
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 中段 三、組織の全貌

間をもって終了するとみられる者にも、偽名のない者とある者もあれば、またC氏の如く在ソ間は全く飼い殺しで、偽名、合言葉を与えられ、誓約書には帰還後のみ遂行し得る目的を明示された者と、さらに写真まで撮影されている者もある。

人選に関しては、D氏の如く戦犯容疑者でありながら、毒をもって毒を制する如く起用され、さてはE氏の如く幼年学校、士官学校という経歴の純軍人をも、その履歴にカモフラージュしている。

これらの事実に徴してみると、元大本営参謀で戦争中止を天皇に直訴して、東條に忌まれて朝鮮軍にトバされたという種村佐孝元大佐の言うように、この組織は『各収容所付の政治部員の独断ではなく、モスクワの中央情報部の指令だ』とみるべきであろう。

この組織の選考、任命、連絡の各段階を詳細にみると、全ソ連地区に共通したものがあるこ

雑誌『キング』p.120上段 幻兵団の全貌 五人は氷山の一角

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 上段 三、組織の全貌
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 上段 三、組織の全貌

三、組織の全貌

ここにあげた五人の場合によって、死の脅迫と、帰国優先の利によって組織された、スパイ網の存在は、もはや疑うことのできない事実であることが明らかになったであろう。事件はようやく始まったばかりであり、今後の調査に影響があるため、仮名を用いたものもあるが、略歴を示した通り、いずれも都内に実在する人物である。

この五人の例は、ただ氷山の一角にすぎなく、何十人という人々の告白によって、〝幻〟の如くに思われたその実態も、次第に明瞭なものとなってきた。収容所の地区も、イルクーツク、バルナウル、エラブカと、東部シベリアから西部シベリア、さらに欧露と西漸するかと思えば、南下してカザック共和国のアルマアタ州に移り、さらに東に飛んでハバロフスク、ウォロシロフというように、全ソ連地区をおおっている。

また使命に関しても、A氏、B氏の如く在ソ

雑誌『キング』p.120上・中段 幻兵団の全貌 ソ連に逃げて来い

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 つづき上段・中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.120 つづき上段・中段

次第解消すべし』と命ぜられました。少尉に別れを告げたのは、ナホトカ第三分所の横かげでしたが、最後に彼はいいました。『日本でアメリカ帝国主義者に圧迫されたら、いつでもソ連に逃げて来い。内務省には名簿が君を待っているから大丈夫だ』と。

雑誌『キング』p.119下段 幻兵団の全貌 ファシズム教育

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.119 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.119 下段

がら、私が幼年学校、士官学校と純粋のファシズム教育をうけていること、現在は民主運動の指導者格ではあるが、将来階級制の強調に伴って脱落せしめられることを予期していること、などを理由に拒みましたが、少尉はかえってそれが好都合であり、万一他の日本人に知れても、彼(私)は出身があんなだから取調べをうけているのだろうとみられて危険性がないし、ファシズムにこりた人間は信頼するに足るのだなど申して、はては死の脅威をもひらめかしました。

その後は平均二カ月に三回ほどの割で、風のように来たり、風のように去る通訳と二人だけの少尉に、窓に鉄格子、二重扉という密室に呼び出されました。約束の時間に三十分おくれても不忠実呼ばわりされて脅かされたこともあり、調査に熱意をかくといわれ、裏切る気かと迫られたこともありました。その当時の暗い気持ち、板ばさみの境地は、その人ならでは分からぬ、不気味なものでした。(中略)

果たして帰れるか、他に送られるか、言い知れぬ不安の何日か、その時、突然列車の中央から現れたのはエルマーク少尉であったのです。小蔭に呼ばれて『ナホトカまで車中の動静に注意して、旧歴を暴露する者や、反ソ的言辞を弄した者を速やかに報告せよ。任務はナホトカにて乗船

雑誌『キング』p.119中段 幻兵団の全貌 ソ連内務省に協力

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.119 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.119 中段

何も与えられずに収容所に帰ってきた。

五、E氏の場合(書簡)

E氏(今泉丈彦氏、二十四歳、元見習士官、幼年学校、陸士卒、会社員、東京都世田谷区東玉川、タイセット地区より二十四年に復員)

彼の地では二十三年二月以来、帰還の日までラーゲル内民主委員をつとめてきましたが、二十四年正月半ば、NKのエルマーク少尉なる者に呼び出され、誓約書とさらに八項目にわたる内容についての情報提供を強要されました。実はそのエルマーク少尉も二十三年秋に収容所に配属されてから、個人的にも親しく正月の休みには遊びに行ったほどで、かつ彼が独身で炊事の面倒もみてやっている仲でした。

誓約書をとられる前、つまり元旦すぎて直ちに呼び出されて、半紙三枚ほどに『現在の世界の二大勢力について』『天皇制支配機構について』『収容所内の民主運動について』の三つのテーマで所感を書くべく命ぜられたこともありました。その後呼び出されて、少尉はおもむろに、ソ連邦内務省への協力を要求したのです。平素の親しさは何処へやら、その時の彼の冷たい態度は、驚駭の淵に突っ込まれた私に、ちゅうちょなく承諾を迫りました。私は当惑の色を浮かべな

雑誌『キング』p.119上段 幻兵団の全貌 諜報業務に協力

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.119 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.119 上段

この日は意外にも四人の将校がおり、モスクワの大佐というのが取調べに当たった。前日の大尉と少尉のほかに、霜降りの詰襟に乗馬ズボンの男がいたが、何者か分からなかった。この男だけは全く沈黙を守っていた。

政治的な話題からはじまって、履歴、収容所内の状況、情報勤務の状況など、詳細に取調べをうけ、さらに続いて一日おきに二十日、二十二日と呼び出された。

二十二日には、諜報業務に協力しないかといわれ、ついに誓約書を書いた。

白西洋紙の美濃判の紙にペン書きしたが、深夜の一時ごろ終わった。大佐は握手を求めて、砂糖湯、鮭カン詰、カルバサ(腸詰)、リビョーシカ(ジャガイモ料理)、黒パンなどを御馳走してくれた。金は一〇〇ルーブルもらった。

翌々二十四日に再び大佐の調べ室に呼び出されたので、何事だろうと思って行くと、大佐は厳粛な態度で、

『Dは戦犯事実なきことを宣言する。近日中に釈放を許可する』

と、誓約書の一件など全く知らないような顔で、私の戦犯容疑が晴れたという判決を下したのだった。そのころ、私の写真はすでに調べ室で撮影済みだった。

私は翌々二十六日に釈放となり、スパイ命令は

雑誌『キング』p.118下段 幻兵団の全貌 取調室でNKと

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.118 下段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.118 下段

平屋建てで、七つの房と、事務室、宿直室、それに二つの取調室があるらしかった。監房は六畳敷きほどの広さで、廊下側に鉄扉、反対側に鉄格子のはまった一尺五寸ほどの窓が一つあるきりだった。二段寝台があり、五十六、七歳の白系露人と同室していた。給養は一日三百五十グラムの黒パンとスープだけ。スープといっても魚の塩湯だ。取調べは、いつも夜の十時ごろから翌朝四時ごろまであり、廊下の入口に厳重に歩哨が立っているので、隣室と壁を叩いてモールス通信をした。

四月二日に放りこまれてからずっと音沙汰なく、ある日、同居人として入っていた満鉄の関係の男に取調べの模様をきいたところ、『前職関係のことを調べられた』といったきり、頑固に口をつぐんだが、やがて出て行ったので、何かあるなと感じていた。

四月十六日の夜十時ごろ、取調室にはじめて呼び出された。NKの大尉と通訳の少尉が待っており、コップに甘い紅茶を一杯くれた。

『あなたは情報勤務をしていたということだが、非常に興味ある問題だから話をしてくれ』といいだして、駐屯地とか、どんなことをするかとか、情報の仕事について調べられた。この日は三十分ほどで終わり、翌々十八日の夜十時から二回目の取調べがあった。

雑誌『キング』p.118中段 幻兵団の全貌 D氏 情報将校

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.118 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.118 中段

もう、帰ってから一年の余になりますが、本当ですよ。合言葉はきいていませんです。

しかし、今でもまだハッキリと、あの言葉は耳に残っています。時々、街角でマーシャではないかと思って、ハッとするような婦人をみかけることもあるんです。

『また、東京でおめにかかりましょう』

あの女なら、本当にもう一度、逢ってみたいような気もします…。

四、D氏の場合(談話)

D氏(特に名を秘す、四十一歳、元大尉、東京都、アルマアタ地区より二十五年に復員)

私は収容所で大隊長をしていた。軍隊時代には情報将校だった。昭和二十二年の春のこと。組織の力で所内の生活を改善しようと計画をたてていた時、反ソ的だというのと、何事かを企図していると密告され、また、情報関係だったという密告もあって、逮捕されたのである。

四月二日のこと、作業に出ようとしていたら、六、七名が転属だといわれ、私の名も入っていたので、仕度をして集合した。ところが、私一人だけ、NKの下士官が拳銃をつきつけて、約四キロはなれた他の収容所の近くにある監獄に入れられた。

ここは戦犯を調べるところらしく、レンガ造りの

雑誌『キング』p.118上段 幻兵団の全貌 合言葉と偽名も

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.118 上段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.118 上段

せんでした。中尉の腰には小さな拳銃がのぞいて見えました。本当に夢のような出来事です。

その後、私は背広の少佐に呼ばれて、写真を撮影されているのです。正面、半身、左右の横顔、四枚もです。

何故、私がこんなに恐れているかお分かりになりますか?

私は月に一、二回ほど、中尉か少佐に逢います。一時間も話しますでしょうか。話題は思想的なものばかりで、民主運動のあり方とか、資本主義社会の欠陥とか、そんなことばかりです。密告とか名簿の提出など命ぜられたことはありません。それなのに、五〇—三〇〇ルーブルの金をくれるのです。たまには領収証だけのこともありました。

もう、お分かりになったでしょう。私の誓約書には、日本に帰ってからでなければ働けないような目的が、ハッキリと書かれているのです。そのうえ、合言葉と偽名もあります。そして、何もしないのに金をくれて、写真まで写しているのですから…。

合言葉の男、きっと、赤いマントをきたメフィストフェレスのような奴でしょう。それが、いつ、どこで、どうして、私の前に現れるかと、ただそればかりを恐れて、毎日を不安に悩みながらすごしているのです。

雑誌『キング』p.117中段 幻兵団の全貌 ポルトウインで陶然

雑誌『キング』昭和25年5月号 p.117 中段
雑誌『キング』昭和25年5月号 p.117 中段

っていました。車から降りた二人は、ご持参のポルトウイン(ブドウ酒)やシャンペンスキーの栓を抜き、カルバザ(腸詰)をひろげて、私の方をみてニッコリ笑いながら、人差指と親指でポンとのどを弾くのです。これはソ連人の『一パイやるか』といったような仕種です。

何が何だか、夢のようで分かりませんでしたが、松林の静まり返った中で、捕虜になってからみたこともない御馳走で、宴会がはじまりました。わずか一、二杯のポルトウインで、すっかり陶然としたころ、少佐らしい背広の男がニコヤカに話を進めてきたのです。

『あなたは、絶対に否とはおっしゃいませんでしょう?』

私には、その時になってはじめて、マーシャの残していった、謎のような言葉が思い当たりました。

私は誓約書を書きました。運転手は、いつ、どこに消えたのか、姿がみえません。背広も、中尉も、一言も脅迫がましいことはいいま