投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

最後の事件記者 p.234-235 めぐりあいというものはなかなかにドラマチック

最後の事件記者 p.234-235 田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。
最後の事件記者 p.234-235 田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。

私は新聞記者である。新聞というマンモスを良く知っているつもりである。私の記事が真実で

はない、なぞと、蟷螂の斧の愚はやめよう。私は田川編集長の期待に応えて、面白い原稿を書こうと考えた。

文春の記事を読んだ、福岡県の田舎の方から手紙をもらった。「……かかる目に見えない暴力と闘って下さい。しかし、あなたには記事にして発表する場と力があります。まだまだ弱い立場の人が沢山いるのです……」

共産党はお断り

メーデー事件のK被告

故旧いかで忘れ得べき——めぐりあいというものは、なかなかにドラマチックで、懐古趣味のある私などには、たまらないよろこびを与えてくれるものである。

田川編集長ばかりでなく、自由法曹団のウルサ型弁護士、石島泰とのめぐりあいなども、やはり、なかなかにドラマチックで、強い印象が残っている事件だった。昭和二十七年秋の選挙、といえば、共産党が血のメーデー以来の火焰ビン闘争の批判を受けて、全滅してしまったことで有名な選挙だったが、そのころのことである。

(写真キャプション)むかしの日共はホントのことを書いてもこれだ

当時、遊軍記者として本社勤務だった私は、〝反動読売の反動記者〟と目されて、共産党関係のデマ・メーカーといわれていた。そんなある日、私は村木千里弁護士の事務所にフト立寄った。

村木弁護士は、明大を出てから、東京裁判の間、ウォーレン弁護士の助手を勤め、独立してからはほとんど外事専門の弁護士をしていたのだが、彼女のもとに共産党の事件の依頼があったという。聞くとメーデー事件の被告だというので、私は面白いと感じた。

彼女の扱っているのは、アメリカ人を中心にほとんど出入国管理令、外国為替管理法、関税法とかの、いわば資本主義的外事事件ばかりなのに、そこへ共産党だというから、ソ連人がアメリカに逃げこんできたような感じだった。

何しろ、公判へ廻ってからのメーデー事件と

いうのは、アカハタとインターナショナルの歌の渦で、怒号、拍手など、とても審理どころではなく、その法廷闘争には裁判所も手を焼いていた。そんな狂騒の中で、いわば興奮から事件にまきこまれた、可哀想な被告たちのうちには、静かに考え出す者が出はじめて、分離公判を希望するものがあったのだが、今までは表面化していなかったのである。

最後の事件記者 p.236-237 「共産党はお断り」という大きな横見出し

最後の事件記者 p.236-237 根拠は「もう、共産党はゴメン」ということだった。家庭教師の口は断られ、就職内定は取消、妻は臨月、もう喰って行けない。だから、共産党でないと客観的事実で示したい、というのである。
最後の事件記者 p.236-237 根拠は「もう、共産党はゴメン」ということだった。家庭教師の口は断られ、就職内定は取消、妻は臨月、もう喰って行けない。だから、共産党でないと客観的事実で示したい、というのである。

何しろ、公判へ廻ってからのメーデー事件と

いうのは、アカハタとインターナショナルの歌の渦で、怒号、拍手など、とても審理どころではなく、その法廷闘争には裁判所も手を焼いていた。そんな狂騒の中で、いわば興奮から事件にまきこまれた、可哀想な被告たちのうちには、静かに考え出す者が出はじめて、分離公判を希望するものがあったのだが、今までは表面化していなかったのである。

村木弁護士への依頼者というのは、メーデー事件で、率先助勢と公務執行妨害の二つで起訴された、Kという東大工学部大学院の学生であった。彼は、メーデーに参加して、あの騒ぎが始まり、落したメガネを拾おうとしたところを、警官に殴られたので殴りかえしたという、検挙第一号の男だった。

私選弁護人を頼んできた理由というのが、統一公判を受けていたら、一体何時になったら終るのか判らないし、公判の度に休まねばならない。メーデー事件の被告というだけで職にもつけない、という悩みからだという。

そのころ、メーデー公判は、「統一なら無罪、分離なら有罪」と、しきりに宣伝されていて、被告団の結束を固め、法廷闘争を行っていた時期だった。村木弁護士に聞けば、さらに二人の被告が、分離を希望して相談にきているという。

私は、このようなメーデー公判の客観状勢を知っていたので、この分離希望の第一号はニュースだと感じた。しかも、K被告だけではなく後にも続いているという。

共産党はもうゴメン

車を飛ばして、練馬の奥の方のK氏の家を探した。会って話を聞いてみると、分離希望の第一の根拠は、「もう、共産党はゴメン」ということだった。家庭教師の口は断られ、就職が内定していた会社は取消す、妻は臨月で、もう喰って行けないのだ。だから、共産党でないということを、客観的事実で示したい——というのである。

私は心中ニヤリとした。いわば、彼の立場は〝裏切者〟第一号である。

「宜しい。あなたが共産党でないことは、記事の中にハッキリと書いてあげましょう。共産党とされて、喰って行けなくなったのだから、それを明らかにすれば、道は通ずるでしょう。そのことを手記にして、弁護士に訴えなさい。それがニュースのキッカケになるのですから……」

こうして、その記事は「自由法曹団をやめないと、真実はいつまで経っても判らない」という、共産党の指令のもとに、法定闘争という戦術の場にメーデー公判を利用している自由法曹団を、被告という内部から批判したものとしてまとめられた。

十月一日の投票日の数日前に、私はその原稿を提稿したのだったが、選挙前で紙面がなく、しばらくあずかりになっていた。

ところが、共産党の候補者が全滅し、それに対する論調が賑わっていた十月三日の夕刊に、それがトップで掲載されたのである。「共産党はお断り」という、大きな横見出しが、開票直後だっ

ただけに、凄く刺激的で、効果的だった。

最後の事件記者 p.238-239 共産党関係の自由法曹団の石島弁護人

最後の事件記者 p.238-239 この記事はモメるゾ! 同時に直感した。案の定、K氏から抗議がきた。数日後、石島弁護士が面会を求めてきた。——来たナ! しかも、石島か!
最後の事件記者 p.238-239 この記事はモメるゾ! 同時に直感した。案の定、K氏から抗議がきた。数日後、石島弁護士が面会を求めてきた。——来たナ! しかも、石島か!

ところが、共産党の候補者が全滅し、それに対する論調が賑わっていた十月三日の夕刊に、それがトップで掲載されたのである。「共産党はお断り」という、大きな横見出しが、開票直後だっ

ただけに、凄く刺激的で、効果的だった。

——ウーン。ウマク使いやがるなア!

私は、その夕刊を開いて、社会部と整理部のデスク(編集者)の腕の良さに、しばらくの間は、感嘆のあまりウナったほどだった。

——この記事はモメるゾ!

同時に直感した。私の記者生活の経験から、記事の反響は本能的にカギわけられる。案の定、翌四日になると、K氏から抗議がきたし、村木弁護士からも、「K氏が大学で吊しあげられたので、慌てだしている」と伝えてきた。

その数日後、社の受付から、私に石島弁護士が面会を求めている、と伝えてきた。

——来たナ! しかも、石島か!

私は緊張した。三階に通すように答えると、もう一度取材の経過をそらんじてみたのである。「大丈夫!」自分自身にいい聞かせる言葉だった。「オレは自信のない取材をしたことはないンだ!」

昭和二十三年から四年にかけての、約一年間というものを、私は司法記者クラブですごした。そのため、裁判記事には関心があり、共産党関係の公判廷で、「……自由法曹団の石島弁護人が鋭く検察側に食い下った……」旨の記事をよく読んでいたのだ。石島弁護人というのは、戦闘的な気鋭の弁護士だと承知していた。

第二の裏切り

K被告の記事は、すでにアカハタ紙が、「読売新聞またもウソ、全く記者の作文」と大きく反ばくし、東大学生新聞もまた、「商業紙の正体暴露、驚くべき虚偽の報道」と、全面を費していたのだった。

だから、私としても、弁護士付添の正式の抗議ともなれば、相当の覚悟がいる。しかも石島という名前も、負担だった。社会部長に報告して、私は編集局入口の応接間のドアを開いた。

「アッ! 何だ! 石島というのは……」

「やっぱり、三田って、お前か!」

同時に二人の口をついて出てきた叫びだった。めぐりあい、だったのである。いうなれば、敵味方に分れ、対立した立場で、たがいに男の仕事の場での、めぐりあいだった。

昭和十四年三月、東京府立五中を卒業したわれわれは、新橋の今朝という肉屋の、酒まで並べた別れの会から、十三年半ぶりで再会したのだった。しかも、石島と私とは、小学校、西巣鴨第五尋常小学校(のちの池袋第五小)でも同級で、一、二番を争った仲だったのだ。何という奇遇だったろうか。

二人は思わず握手をしていた。

「石島とは聞いてたが、フル・ネームが出てなかったので、君とは思わなかったよ」

最後の事件記者 p.240-241 K氏は裏切者として相当吊しあげられた

最後の事件記者 p.240-241 このトラブルの原因は、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。
最後の事件記者 p.240-241 このトラブルの原因は、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。

二人は思わず握手をしていた。
「石島とは聞いてたが、フル・ネームが出てなかったので、君とは思わなかったよ」

「オレもそうなんだ。三田という、あまりない姓だから、モシヤとも思ったンだ」

この意外な展開に、一番呆っ気にとられていたのは、K氏だったろう。だが、しばらくのちに石島弁護士は形をあらためて、私の記事への抗議に入った。私も、我に返って身構えた。

彼の抗議は鋭い。微細な点まで根拠を突っこんでくる。私は突っぱねるべきは突っぱね、説明すべきは説明した。約一時間のち、会見は物別れとなった。

このトラブルの原因の最大のものは、K氏の功利的なオポチュニストという、その人柄に問題があったのである。もちろん、私の記者としての態度にも、たった一つだけ問題はあった。

この抗議のある前に、私が調べてみた事情はこうだった。K氏はこの記事の出た翌日、学校へ行った時に、裏切者として相当吊しあげられた形跡があるのである。

自分が毎日生活する周囲から、こんなに強い反撥を受けたのでは、全くやり切れるものではない。K氏の態度は、また、変ったのであった。あれは読売が勝手にやったことであって、私は知らない、私だって迷惑しているのだ、と。

一人の女を捨てることのできる男は、二人の女をも捨てられる。こんな言葉がある。最初に、仲間を裏切った彼は、また、第二の仲間をも裏切ったのである。それと同時に、彼の感じたものは、新聞への無知、ということであろう。

つまり、読売という大新聞のトップ記事の影響力の強さを、彼は私と話している間には、それほど感じていなかったのであろう。しかも、彼のひそやかな裏切行為が、かくも派手に、かくも

効果的に使われるとは! というのが、彼の実感だったに違いないと、私は今でも信じている。

彼は信念のない人である。こういう種類の人物は、いかようにも使えるのである。私はこの「共産党はお断り」というスクープを、与論形成者として、意識的に造ったのであった。K氏はその素材である。

インテリはお体裁屋

スクープは造られるものだ、と私は信じて疑わない。新聞記者が好んで使う、「これはイケる!」「イタダケる」という言葉自体にそのことが現れている。ニュース・バリューの判断ということは、何を基準としていうのだろうか。

K氏はメーデーに参加して、たまたま検挙された。そして、〝悪質(暴力的な)な共産党員〟という、レッテルをはられた。その結果、彼は生活に窮してきた。彼はその言葉によると、共産党でもないし、悪質でもない。だから、このレッテルの下に生活に窮するということは、何としても不合理である、と考えた。そのレッテルから逃れるため、分離公判を受けたいと願って、村木弁護士のもとを訪れたのである。

そのことを、たまたま知って、彼のもとを訪れた私は、彼に何を訴えたいか、何を期待したいのか、とたずねた。彼は、共産党でないということを明らかにしたい、(それは、それを明らかにすることによって、取消された就職口や、家庭教師の口を回復し得ると期待したのであろう)もちろん、そ

のために公判を分離しようと思った、というのであった。

最後の事件記者 p.242-243 ミーハーを知らなくてはミーハーから取材はできない

最後の事件記者 p.242-243 インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。
最後の事件記者 p.242-243 インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。

そのことを、たまたま知って、彼のもとを訪れた私は、彼に何を訴えたいか、何を期待したいのか、とたずねた。彼は、共産党でないということを明らかにしたい、(それは、それを明らかにすることによって、取消された就職口や、家庭教師の口を回復し得ると期待したのであろう)もちろん、そ

のために公判を分離しようと思った、というのであった。

このような本音は、ことにインテリといわれる種類の人たちにとっては、それこそ本当に追いつめられてこなければ、吐けない言葉である。ここまで、本当のことをいわせるのが、記者の取材力である。インテリほどインチキなお体裁ぶり屋はいないのである。

私は兵隊の時に負傷したことがある。その傷口と出血をみて、私は脳貧血を起こしかけた。頭がジーンとなって、気が遠くなってゆくのを感じた時、「アア、俺は将校なんだ。こんなことで卒倒したら、笑いものになる!」という、お体裁の意識がヒラめいて、辛くも気を取り直したことがあった。

もっとも、これは、もし倒れれば、明日から将校として兵隊を使うことができなくなる、という、実利的な問題もあったのだが。

ロッキードとグラマンが、決算委で問題になっている当時、ある防衛庁高官が、赤坂のアンマさんに暴行を働いた、という事件が明るみへ出ようとした。この事件は、いろいろと止め男が出てきて、とうとうモミつぶされてしまったが、私が調べてみた限りでは事実である。

しかし、暴行の内容であるが、いわゆる強姦したのかどうかまでは、明らかではない。襲われた本人や、同僚の話によってみると、この防衛庁高官が、二十一歳のアンマさん(もちろん、正眼の娘さん)に、いわゆる襲いかかってきたことだけは確かである。

議員だからインテリではない、といったような逆説はやめて、国防大臣ともいうべき人だから

いわゆる知識人の範ちゅうに入る人物である。このような人でさえ、本音を吐けば、寝床に傍近く待らして、身体のマッサージをする娘さんに、何かを強要したくなるのである。私には、この老人の心理がよく判るから、ここで非難しようとするのではない。

つまり、東大の大学院学生であるK氏も、本音をはけば、食うのに困ってきて不安を感ずる一人の亭主にすぎないのである。しかも、インテリだから、歯を食いしばって、それに耐えて行こうとする、根性もないのである。

新聞記者の適性

新聞記者の適性の第一は、インテリでないことである。インテリであると、落伍すること請け合いである。インテリの記者には、表現力はあっても、取材力がない。ネタを取れるということと、記事が書けるということとは、車の両輪のようなものである。ことに、事件記者には、インテリはダメである。インテリの記者は、企画記事か発表記事、つまり取材競争のない記事しか書けないのだ。

一例をあげると、事件記者の取材の一番大きな対象は、お巡りさんである。お巡りさんはインテリではなく、ミーちゃんハーちゃんと同じ庶民、大衆の一部で、ただ国家権力を行使し得る、職業的専門家である。

ミーハーの心を知らなくては、ミーハーから取材はできない。お巡りさんの気持と、通じあい

交りあうものがなければ、彼らが公務員法でしばられている職務上の秘密を洩らすであろうか。発表を聞いて文字にすることは取材とはいわない。

最後の事件記者 p.244-245 今の気持を書いてください

最後の事件記者 p.244-245 K氏は私の前で、インテリのポーズをやめて、本音を吐いた。それには、私がインテリでないことを、先にK氏に見せてやったからである。相手がインテリでなければ、彼も何もブル必要がない。その方が気安いからだ。
最後の事件記者 p.244-245 K氏は私の前で、インテリのポーズをやめて、本音を吐いた。それには、私がインテリでないことを、先にK氏に見せてやったからである。相手がインテリでなければ、彼も何もブル必要がない。その方が気安いからだ。

ミーハーの心を知らなくては、ミーハーから取材はできない。お巡りさんの気持と、通じあい

交りあうものがなければ、彼らが公務員法でしばられている職務上の秘密を洩らすであろうか。発表を聞いて文字にすることは取材とはいわない。

その端的なケースが、捜査一課、つまり、コロシ、タタキを担当している記者たちである。テレビの事件記者の中で、スターとして登場してくる彼らは、新聞記者の花形の如くに扱われている。

しかし、現実にはどうだろうか。一課記者は、新聞記者仲間では、内心「フフン、デカか」と軽蔑されている。あるいは、気に喰わない一課記者を飛ばす時の文句は、「お前はデカか? 新聞記者なんだぜ、デカになってしまってはダメじゃないか」という。

だが、殺人事件が起ると、実際に各社を抜いてスクープするのは、そのデカみたいな記者である。あまり知性の感じられない、いわばデカになり切ったような記者である。本物のデカたちと共通の広場があるから、スクープできるのである。

この傾向は、本職のデカたちの間にもあるのだから面白い。強力犯を扱う捜査一課の刑事たちを横目にみて、会社から押収してきた帳簿類を調べながら、智能犯を扱う捜査二課の刑事たちはフフンと笑う。

「強力犯か、オレたちは智能犯だからナ」

そんな捜査一課、二課の刑事部の刑事たちをみる、公安部の刑事たちはまた腹の中で嘲笑う。

「フフン。ドロボーか。オレたちは思想犯だからナ」と。

ところが、さらに、同じように私服を着ているのだが、半張りを打ったドタ靴で、テコテコ歩き廻っている、これらの現場を持つ刑事たちに、ハナも引ッかけない一群がいる。それは、警務系統のお巡りさんである。

警務というのは、会社でいえば総務だ。この連中は、ドロボー一人を捕えることもできなければ、捕えても調書一つ満足にとれず、送検の手続きさえも充分ではない。つまり、同じ警察官でありながら、捜査という、警察官にとって、一番大切な、基本的な実務をせずに、事務屋でいてどんどん階級が上り、エラクなってゆく連中である。

新聞記者の世界も、もちろん、そうだ。事件記者というのは、フンダンに自動車が使えるだけで、実際には、軽蔑されているのだ。そうして、そのように一番大切な現場を踏んでいる記者よりも、総務畑といった、〝事件を知らない〟記者が早くエラクなる。何故かといえば、事件をやると、失敗して傷つく確率がふえるからである。危険率が多いのである。

記事訂正と記者

話がすっかりそれてしまったが、K氏は私の前で、インテリのポーズをやめて、本音を吐いたのであった。それには、私がインテリでないことを、先にK氏に見せてやったからである。相手がインテリでなければ、彼も何もブル必要がない。その方が気安いからだ。

そこで私はいった。「よろしい。貴方の御希望通りにお手伝いしましょう。そのためには、ニュースのキッカケというのがあります。その方が、記事を書きやすいから、あなたが、分離公判を受けたいという気持ちを、手記として、弁護士に寄せたという形式をとりましょう。今の気持を書いてください」

最後の事件記者 p.246-247 手記以前の問題では主張をまげていない

最後の事件記者 p.246-247 私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。
最後の事件記者 p.246-247 私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。

そこで私はいった。「よろしい。貴方の御希望通りにお手伝いしましょう。そのためには、ニ

ュースのキッカケというのがあります。その方が、記事を書きやすいから、あなたが、分離公判を受けたいという気持ちを、手記として、弁護士に寄せたという形式をとりましょう。今の気持を書いてください」

彼が書いてきた文章をみて、私は「バカヤロー奴」と舌打ちせざるを得なかった。彼の手記なるものは、彼の気持と全くウラハラな、例のむずかしい漢語の多い、公式的共産党的声明文である。「……し得る権利を保有したい」といった調子である。

学芸欄の論文じゃあるまいし、こんなものが全文社会面に載ると思って書いたのだろうかと、私はK氏の頭脳を疑った。インテリだから、文字にするとなると、自分の願っていることと、全くウラハラな漢語をつづり合せてしまうのである。

私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、手記の量が減ったので、弁護士のもとに申し出ている、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。

私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。K氏は抗議していうことには、「中学校の生徒に文章を要約させたとしても、もし私の手記をこのように要約したとしたら数師は多分落第点をつけるであろう」という。

今、素直にいって、この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。しかし、手記以前の問題、「赤いといわれて食えない」という、根本的な問題において、彼の主

張を私はいささかも、まげてはいないと信じている。彼が、読売新聞の記事によって、〝赤くない〟という客観的立証を期待した限りにおいては、この記事はそれを立派に果している。

そして、その当時においては、共産党と自由法曹団にとっては、強烈な打撃であったことは確かであろう。

その後のK氏が、果して食えるようになったかどうか、記事のその意味での効果については、私は調べてみなかったので判らない。私は、K氏の抗議を、結論として全面的に突っぱねたのである。記者として、取消しから訂正などを出すということは、大変に不名誉なことである。

それは、彼の取材が不正確であったし、原稿の書き方が下手だ、ということだからだ。新聞内部の組織からいって、このような間違いの責任は、取材記者本人と、その原稿を採用して紙面に載せた当番次長、さらに社会部長ということになる。

一人の記者が、相手の抗議を入れて、しばしば訂正をし、取消しをしていたならば、それは記者としての失格を意味する。だから、新聞記者は訂正や取消しをがえんじないのである。新聞社が、訂正や取消しを簡単にしないのではなくて、その担当記者がしないのである。

長い年月と、費用とをかけて、これを裁判で争うだけの覚悟がなければ、新聞に抗議を申しこむのは、ドンキホーテである。新聞記者は、一、二の例外をのぞいて、全くのウソは書かないからである。もし、全くのウソを書いたとすれば、それは、ニュース・ソースがウソをついたか、全く善意の過失かの、どちらかである。

最後の事件記者 p.248-249 気持の良い笑いだった

最後の事件記者 p.248-249 「イヤ、大分御活躍じゃないか、反共記者ドノは!」「ハハハハ。しかし、石島弁護士というのも、御活躍だぜ」二人は、さっきの冷たい戦いも忘れて笑い合った。
最後の事件記者 p.248-249 「イヤ、大分御活躍じゃないか、反共記者ドノは!」「ハハハハ。しかし、石島弁護士というのも、御活躍だぜ」二人は、さっきの冷たい戦いも忘れて笑い合った。

石島弁護士の友情

K氏の事件も、アカハタ紙と東大学生新聞とが、大きく「読売のウソ」を報じたに止まった。しかし、面白いことには、アカハタ紙には「(K氏の立場が)反共の一線はハッキリしている」などの点は全くのいつわりだ、と、K氏はいっている。とあるのだが、この部分がすべてに詳しい東大新聞にはなく、アカハタ紙がつけ加えた感じがすることである。アカハタ紙がつけ加えず、K氏がその記者にだけそういったものなら、K氏のオポチュニスト性はいよいよ露呈されたワケだ。

「読売新聞が誠意をみせなければ、告訴するということも考えねばならない」

石島弁護士は、会談が最後にきたことを告げて、冷たくこういった。

「どうぞ。……もう、部長、局長に面会をお求めになっても、また、お会いになっても、ムダですから、その点もお断りしておきます」私も、静かに答えた。

石島弁護士はK氏を伴って、編集局を出ていった。私は一たん席へもどって、部長とデスクに帰った旨を断ると、急いで表玄関へ行った。以心伝心、彼はK氏と別れて、また戻ってきた。二人は喫茶店に入った。

「全く奇遇だったな」

「イヤ、大分御活躍じゃないか、反共記者ドノは!」

「ハハハハ。しかし、石島弁護士というのも、御活躍だぜ」

二人は、さっきの冷たい戦いも忘れて笑い合った。気持の良い笑いだった。

「だけどナ。今日のめぐりあいは、まだ良い方だよ。いつかは、警視庁の留置場で、Tの奴にあったよ」

「ヘェー。そうかネ」

Tは役人だったので、五中時代の友人だった、業者と一緒に、呑み食いして、洋服生地をもらったのが、汚職に問われた男だ。

「しかし、思い出すな。あのころを」

「ウン、結構、悪童だったからなア」

二人は時間のたつのも忘れて、すっかり話しこんでしまった。私が逮捕されるや、新聞記事をみた石島弁護士は、私の妻へ電話してきて、「お役に立てるなら、何時でも、どうぞおっしゃって下さい」と温かい言葉を贈ってくれたのだった。

最後の事件記者 p.250-251 私の人間形成に五中の影響は極めて大きかった

最後の事件記者 p.250-251 当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。
最後の事件記者 p.250-251 当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。

あこがれの新聞記者

懐しき悪童の頃

悪童の昔は懐しい。思想的立場の違う弁護士と新聞記者、しかも物別れになった事件を抱えてはいたが、小学校六年間の池袋かいわい、静かな大和郷を抜けて、駕籠町の五中へ通っていたころの、たのしい想い出話がはずんだ。

大正十年六月十一日、横井事件の発生と日を同じうして、大阪府下豊中郡(現豊中市)で私は生れた。当時、九大助教授を辞して、大阪市に大きな外科病院を経営し、その院長となっていた、父源四郎の五男であった。生後一年半で、〝医者の不養生〟から脳炎に倒れた父に死別し、一家は郷里岩手県盛岡市に帰ってきた。

キリスト教会の幼稚園から、県立女子師範の付属小学校二年に進んだ時、一家はあげて東京へ移り住んだのである。当時の私は成績優秀で、石島や商法の東大助教授三ヶ月章らと、一、二を争うほどであった。理の当然として、三人とも名門府立五中へと進んだ。

五中というのは、「創作、開拓」をモットーとした、自由主義校であった。私の人間形成に、

この中学の影響は極めて大きかった。人生の最初の関門ともいうべき、この中学へ合格できたという誇りが私を官僚志望へと向わせた。

級友の兄の少壮大蔵官僚に刺激されて、役人を目指して勉強にはげんでいた時代が、この私にもあったのだから懐しい。一高、浦和を目指すこの秀才少年も、やがて、上級生の中に、後の左翼評論家キクチ・ショウイチを知るにおよんで、早くもコースから外れてしまった。

中学二年のころ、五中の先輩故金杉惇郎の主宰する新劇団「テアトル・コメディ」というのが活躍していた。金杉夫人の長岡輝子の母堂が、私の母の女学校時代の先生だったので、お義理の切符が廻ってきた。私はそれをもらって、はじめて築地小劇場に行って、たまらない魅力を感じてしまった。

五中生の創作活動というのは、学校の奨励と相俟って、極めて盛んだった。その時、キクチ・ショウイチが演劇部というのを新設したものだから、私はイの一番に参加した。そうして、新協、新築地、文学座などと、当時の新劇公演をみて歩くうち、「役人になろうなんて、何てバカヤローだ」と、考えるようになってしまった。

上級に進むにつれ、私は「官僚」を完全に投げ出していた。校友会の雑誌部で「開拓」という校友会雑誌を、論文と創作だけで編集してみたり、真船豊の芝居を上演したり、学生新聞の発刊を計画しては、先生に叱られたりといったように、どちらかといえば左翼ヅイていたのだった。

卒業の時、水戸高校の文科を受けた。受験勉強などはあまりしていなかったが、学科試験には

十分自信があった。発表を見に水戸まで出かけてゆくと、合格しているではないか。自信があったとはいえ、こんな嬉しいことはなかった。同行して理科を受けた漢方薬問屋の倅山崎という男と、祝盃をあげようということになったのが、間違いのはじまりだ。

最後の事件記者 p.252-253 勝利の美酒に酔い痴れて

最後の事件記者 p.252-253 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。
最後の事件記者 p.252-253 女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。

卒業の時、水戸高校の文科を受けた。受験勉強などはあまりしていなかったが、学科試験には

十分自信があった。発表を見に水戸まで出かけてゆくと、合格しているではないか。自信があったとはいえ、こんな嬉しいことはなかった。同行して理科を受けた漢方薬問屋の倅山崎という男と、祝盃をあげようということになったのが、間違いのはじまりだ。

当時は高等学校に入れば、大人の仲間入りである。二人は大人になったつもりで、水戸の駅裏にあったカフェー「ルル」という店に入って、はじめてタバコを吸い、ビールや酒を呑んだものである。おっかなビックリ、女の肩も抱いてみた。

深更、勝利の美酒に酔い痴れて、旅館に帰ってきたはいいが、どういうものか寝つかれない。私が反転すれば、山崎も寝返りを打つという有様で、雨戸のスキ間から朝日がさしこみはじめてようやくウトウトとした。

女中に叩き起されて、第二次試験場に入ったが、文科は口試、理科は体検と別で、翌日はその逆だ。寝不足の私は、控室で寝入ってしまい、試験が終ってから発見されるという騒ぎだった。曲りなりにも試験だけは受けさせてもらったが、結果はもちろんダメ。山崎も、カフェー「ルル」のせいか、卒業まで裏表六年かかるという始末だった。

「畜生メ、見ていろ」

浪人生活に入った私は、もう完全に演劇青年だった。やはり、五中の先輩のいた劇団東童で実践活動に入ってしまった。母親はこのグレた末息子に手を焼いて、徴兵の年がくると、「どうか、

学校だけはいっておくれ。お父さんに顔向けできないよ」と哀願した。

父亡きあとの長兄は、二高、京大理学部、東大大学院というコースの、徹底した官学主義者であった。「男は東大か京大、女はお茶の水にあらざれば人にあらず」といったコリ固りだった。だから、もちろん私の私大入学など認めようとしない。

徴兵逃れに、私は母の頼みで上智大学に入ったが、ドイツ語をサボったので二年に進級できない。私は演劇青年だから、落第したのを機会に、日大芸術科へ入学するといったけれども、長兄が「学資を出さない」と、日大入学を認めてくれない。

それを聞いた次兄が乗り出してきた。次兄は早大理工の、これまた徹底したアンチ官学派であった。「ヨシ、学資はオレが心配してやるから、その代り小遣いは自分でやれ」といって、私の日大入学を支持してくれた。

私は日大の芸術科に入ったが、その時、どんなつもりだったのか、演劇科や映画科をえらばずに、新設の宣伝芸術科というのを、専攻に選んでしまった。その理由は今では覚えていないが、時局はいよいよ急迫しており、国家宣伝という、与論形成のプロデューサーともいうべき、この科に何となく興味を覚えたものらしい。

私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。

「ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!」

最後の事件記者 p.254-255 今でいうアルバイト学生だった

最後の事件記者 p.254-255 国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、その編集部につとめて、ユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。
最後の事件記者 p.254-255 国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、その編集部につとめて、ユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。

私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。
「ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!」

私はそう決心した。しかし私は昔の苦学生で、今でいうアルバイト学生だった。次兄との約束もあり、銀座の喫茶店のボーイ兼バーテン兼マネージャーをしたり、コンサート・マネージャーをしてみたりして、小遣銭、というより遊ぶ金を稼いだのだった。

太平洋戦争が始まり、日本軍がマニラを占領するや、ライフの向うを張って、フィリピン向けに作られた、国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、午後からその編集部につとめて、故人のユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。

そして、日大卒業の時がきた。戦争はすでにたけなわになっていて、我々は半年の繰り上げ卒業であった。私の日大入学に反対した官学派の長兄とは、その時以来ケンカ別れであった。同じ家にいても口一つきかなかったのだ。私はこの卒業の時に、何とか長兄をヘコましてやりたいものだと考えた。

そのため、もちろん兵隊に行って、戦死をするに違いないと思ったが、公募する会社の入社試験を受けて、長兄と仲直りする機会を作ろうと思ったのである。三浦先生に相談して、朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。みな、それぞれに何十倍という競争率だった。

試験問題をみると、さすがにどこでも時局色があふれていた。朝日の作文は「戦争と科学技術」、単語には、承詔必謹とか七生報国といった類いで、読売も、論文が「決戦下新聞の使命について」、単語となると、波動兵器、応徴士、広域行政などで、和文外国訳が「東条首相の訓示」といった

有様だった。

成績には、三社とも十分な自信があったのだが、朝日からは「残念ながら、貴意に添い難く……」の返事がきた。不思議に思った私は、同郷の大先輩であった故伊東圭一郎出版局長をたずねて、事情を調べて頂いた。すると、「試験成績は合格圏内だったのだが、出身校が……」と、いい難そうに説明されたのである。

激怒した私は、数寄屋橋の上から朝日新聞社を振り仰いで、ハッタとばかりニラミつけた。

「畜生メ! 見ていろ、あとで朝日が口惜しがるような大記者になって見せるゾ!」

と、誓ったものである。朝日の三階のバルコニーから、演説をしてみたいというのが私の夢だったからだ。

(写真キャプション)朝日は日大出身ゆえに落第、NHKはアナ採用

最後の事件記者 p.256-257 長兄の官学主義にタテついていた

最後の事件記者 p.256-257 私はその入社成績を長兄に示していった。「どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか」と。官学派の長兄は、日大などはポン大といって、軽蔑していたのである。
最後の事件記者 p.256-257 私はその入社成績を長兄に示していった。「どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか」と。官学派の長兄は、日大などはポン大といって、軽蔑していたのである。

官学出と私学出

読売とNHKとからは、予期通り採用通知がきた。読売は約五百名の志願者から、十名を採用したが、一番が慶応、二番が私の日大、東大が五番、京大が七番であった。何故こんなことを覚えているかというと、わざわざ人事部へ行ってきいてきたからである。

それには魂胆があってのことだった。私はその入社成績を長兄に示していった。

「どうです。東大も京大も、ポン大より下じゃないですか」と。

官学派の長兄は、一時日大の講師をしたことがあって、例の日大騒動の時にやめたのだが、以来、日大などはポン大(ニッポン大学の真中をとった呼び名)といって、軽蔑していたのである。

私はこのような長兄の官学主義にタテついていたのであった。当時の日大芸術科がそんな立派な学校であったとは、私も思ってはいない。しかし、私は上級の学校教育の最大の価値は、良い先生と良い友人とを得られるかどうか、ということだと思っている。大学から得られる知識などは、独学でも得られるはずである。

例えば、読売には、社会部だけでも日大芸術科の先輩が二人もいて、それぞれ次長にまでなっていたし、学歴がなくても、名次長として後輩たちの信頼を集めている人もいた。

こんな話がある。東大法科を出た新米記者がいた。その記者は適性がなかったのか、いつまでもウダツがあがらず、いつまでもサツ廻り(警察廻り)であった。ある日、受持ちの警察へ行って

署長室へ入ろうとすると、巡査が彼をおしとどめた。

「今検事さんがきていらっしゃいますから、入らないで下さい」と。彼は、そんなにエライ検事とは、一体どんな奴だろうかと、ガラス戸ごしにのび上ってみると、何と東大時代の友人ではないか。彼は一介のサツ廻りであり、先方はエライ検事だ。その時ほど情なかったことはない、とコボしたそうだが、やがて、その記者は社会部という、新聞社の一流コースから脱落して、地方支局へトバされてしまった。

戦後の新聞記者熱で、入社試験は大変な盛況である。ところが、入社してくる顔ぶれをみると官学が圧倒的に多くて、私学が少なくなっている。大分以前のことだが、私たちは社の前の夜明し呑み屋で、新聞記者に私学出が少なくなることを嘆いて、気焔をあげていた。そこへ、人事部長が表を通りかかったものだ。早速引ッ張りこんで、「どうして東大ばかりをとるのだ」と、ネジこんだものである。

すると、人事部長は「これが入社試験の厳正さを証明するものだ。今の入社試験では、答案の書き方の技術からいって、官学のふえるのは当然だ」という。私どもは、この答えにグーの音も出なかったのであるが、新聞がつまらなくなってきた原因の一つにも、こんなことがあるのではあるまいか。

話をもとにもどして、私はこうして、一つ家にいながら、口も利かなかった長兄と、やっと仲直りしたのだった。昭和十八年秋のことだ。

最後の事件記者 p.258-259 一文能く人を殺し得る記者の責任

最後の事件記者 p.258-259 ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。
最後の事件記者 p.258-259 ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。

新聞かラジオか

だが、読売をとるべきか、NHKをとるべきかで、私は大いに迷った。いろいろと御相談に乗って頂いた朝日の伊東局長などは、「NHKになさい」とすすめて下さった。今にして思えば、実に将来を見通されていたお言葉だったのであるが、私はついに読売をえらんでしまったのである。

その第一の理由は、すでに徴兵検査を受けており、何時召集されるかわからないし、召集されたなら、生きて再び社へ帰ってくることは期待薄だったのである。私は考えた。

「戦死ならば良い。しかし、負傷だけで帰ってきたらどうしよう」と。

私は少年時代からギッチョになり、字も左右両方で書けるのである。右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。そう思ったのだ。

それと、もう一つの理由。それは、新聞とラジオとの、本質的な問題を、私は、もっと雰囲気を出して、ロマンチックに考えていたのだった。

今、官庁をはじめ、どこの記者クラブにも、新聞記者とラジオ記者とが同居している。この間の、皇太子妃の決定発表でも、新聞とラジオとがウマく協定したからよかったが、新聞とラジオとは本質的な違いがある。ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。

ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。もちろん、携帯ラジオで、自分の原稿の行方を確かめている記者の姿を、私はまだ一度もみたことがない。

ラジオ記者は、よくそれで不安も悩みも、ましてやよろこびも感じないで、生きていられるものだと、感嘆する。新聞記者の場合は全く違う。一字一句をおろそかにしないで原稿を書く。テニヲハ一つでも、意味が変ってくるからだ。

ゲラになってから、何段でどんな見出しがついて、どんな扱いになっているかを、また見なければならない。もし、扱い方や見出しが内容と違っていれば、次の版ですぐ直さねばならない。私は、トップ記事ならば、必らず、大ゲラが出るまで残って、自分の記事の内容とその扱い方とについて、納得がいかなければ帰らなかったほどである。

それが新聞記者のよろこびであり、一文能く人を殺し得る記者の責任でもあるはずだ。〝 新聞にコロされた〟例はあるが、〝ラジオにゴロされた〟というのはきかない。

最近、ラジオやテレビの人たちの、仕事があとに残らない嘆きを聞く。テレビも電気紙芝居と自嘲する。新聞の最大の強味は記録性である。ラジオとの本質的な違いである。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。

最後の事件記者 p.260-261 たとえ駄菓子袋となろうとも

最後の事件記者 p.260-261 そこに書かれた文字は、〝○○にて、三田特派員発〟という、私の署名記事である。彼女はハッと胸をつかれて、その記事を読みふけってあの夜のことを想い起す。
最後の事件記者 p.260-261 そこに書かれた文字は、〝○○にて、三田特派員発〟という、私の署名記事である。彼女はハッと胸をつかれて、その記事を読みふけってあの夜のことを想い起す。

あこがれの新聞記者

というのは、昭和十八年といえば、もはや戦争をはなれて、何一つとして判断できない時期である。私は、天皇陛下のために、一命を鴻毛の軽きにおくことに、いささかもちゅうちょしない青年だったのである。

戦争に征くからには、想い出を持っていきたかった。息を引きとる最後の時には、天皇陛下万歳というよりは、もっと身近かなことを、考えたいと思った。母親! それもよい。だが、少し違う。

私は一人の女性のことを想った。その人とは、もう別れて何年にかなる。青森県の片田舎で、人妻になったとか聞く、その人のことを、何かほのぼのとした気持で懐しんでいたのである。何故ならば、私はその人で、満二十歳の誕生日の夜に、男になったからだ。

何人かの子供が生れて、村の駄菓子屋で子供にせがまれるまま、鉄砲玉を買ってやるその人。黒い飴玉を一粒、一粒、古新聞の袋からハガして、口に運んでやっている時、フト、彼女の視線が一点に凝集される!

その袋の上の黒い幾つかの点、活字が次々に大きくなって、彼女の眼に飛びこんでくる。そこに書かれた文字は、〝○○にて、三田特派員発〟という、私の署名記事である。

彼女はハッと胸をつかれて、その文字を確かめるように読みかえすであろう。袋のシワをのば

しのばし、アチコチと千切れてしまっているその記事を読みふけってあの夜のことを想い起す。もしや、この人は……。

そのころ、或は私は、祖国を遠くはなれた異境で、誰一人みとりする人とてなく、静かに眼をつむり、魂は神となって鎮まろうとしているかもしれない。それでいい。あの人に今一度、我が名を想い起さしめ、呼ばさしめるものは、たとえ、駄菓子袋となろうとも、何時までも残っている、新聞の記録性の故である。もしも、アナウンサーならば、その声は、うたかたのように、瞬時にして消え去っていってしまうだろうに。

NHKには、「採用御辞退願」という、奇妙な一文を草して郵送し、私はあこがれの新聞記者になったのである。 当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。朝気みなぎるというのであろうか。

感激の初取材

編集局の中央に突っ立っている、正力社長の姿も良く毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいては話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。

社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた。

最後の事件記者 p.262-263 原稿はバサリとクズ籠に投げすてられた

最後の事件記者 p.262-263 社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。
最後の事件記者 p.262-263 社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

イガグリ坊主頭に、国民服甲号という、この新米記者も、即日働らきはじめていた。実に清新爽快な記者生活の記憶である。確か午前九時の出勤だというのに、当時の日記をみると、午前七時四十分、同二十五分、八時五十分と、大変な精励ぶりだ。それに退社が六、七時、ときには九時、十時となっている。タイム・レコーダーが備えられていたので、正確な記録がある。

十名の新入社員は、九名までが社会部に配属された。私たちの初年兵教官は、松木勇造現労務部長であった。その教育は文字通りのスパルタ式、我が子を千仭の谷底に落す、獅子のそれであった。

入社第一日目に亡者原稿を、何も教えられずに書かされた。この数行の処女作品は、早大教授の山岸光宜文博の逝去であった。私のスクラップの第一頁に、この記事が、朝日、毎日のそれと並べてはられている。死亡記事でさえ、朝毎の記事と優劣を競おうという心意気だったらしい。

第二日は、初の取材行だ。戦時中の代用品時代とあって、新宿三越で開かれていた、「竹製品展示会」である。今でもハッキリと覚えているが、憧れの社旗の車に、ただ一人で乗って、それこそ感激におそれおののいたものである。

車が数寄屋橋の交叉点を右折する時、社旗がはためいた。大型車にただ一人の、広い車内を見廻して、「これは本当だろうか!」とホオをつねってみたい気持だった。尾張町(銀座四丁目)からバスにのれば、十五銭で済むのになア、と、何かモッタイないような気がした。

この感激のテイタラクだから、取材も大変なものである。待っていてくれた(アア、待たせてお

いたのではない!)車に飛びのり、帰社するや否や、書きも書いたり七十枚余りの大作、竹製品展ルポだった。

提稿をうけた松木次長は、黙って朱筆をとると、私の大作を読みはじめた。左手で原稿のページは繰られてゆくが、右手の朱筆は一向におりない。ついに読み終った原稿は、一字の朱も入らずに、バサリと傍らのクズ籠に投げすてられてしまった。

呆然として立ちつくす私を、彼はふりむきもせずに、次の原稿に手をのばした。私は無視され黙殺されていた。新米も新米、二日目記者の私は、自分をどう収拾したらよいか分らない。怒るべきなのか、憐れみを乞うべきなのか、お追従をいうべきなのか!

そこへ掃除のオバさんがきて、私の労作は大きなクズ籠にあけかえられ、アッと思う間もなく反古として持ちさられてしまった。これは大変な教育であった。それからの私の記者生活を決定づけたのは、この時であり、また、新聞とは冷酷無残なりと覚えたのであった。

ビンタ教育

このような教育をうけた記憶は、軍隊時代にも一度ある。北支は河南省、温県という旧黄河沿いの一寒村に甲種幹部候補生として、保定への入校を控えていたころだった。

この温県は大変水の悪い所で、飲料水は村にたった一つの井戸だけ、他の井戸は雑用水にしか使えなかった。そこで、隊にも炊事の前に二つのドラムカンがあって、一つが飲料水、他が雑用

水として汲み置いてあった。

最後の事件記者 p.264-265 班長の帯革ビンタ

最後の事件記者 p.264-265 「三田候補生。下腹に力を入れ、両脚を開け。眼を閉じ、歯を喰いしばれ!」「心の弱い者には、班長はこのような教育はしない。心の強い者には、強い教育が必要なんだ!」
最後の事件記者 p.264-265 「三田候補生。下腹に力を入れ、両脚を開け。眼を閉じ、歯を喰いしばれ!」「心の弱い者には、班長はこのような教育はしない。心の強い者には、強い教育が必要なんだ!」

この温県は大変水の悪い所で、飲料水は村にたった一つの井戸だけ、他の井戸は雑用水にしか使えなかった。そこで、隊にも炊事の前に二つのドラムカンがあって、一つが飲料水、他が雑用

水として汲み置いてあった。

ある日、演習が終って、斑長の洗面水を汲むため、私は戦友より先にかけつけた。雑用水の蓋をとってみると、南無三、カラっぽである。飲料水はとみると、満々と入っている。ところがヒシャクが見えない。兵は拙速を尊ぶのだ。あたりを見廻したが、幸い人影がない。ままよとばかりに、私は洗面器を飲み水のドラムカンに突込み、班長のもとにかけつけた。

その夜である。ローソクの灯で自習をしていた私は、下士官室へ呼ばれた。すでに消燈はすぎて、夜も大分ふけていた。私の教育班長は、埼玉出身の飯田伍長。志願で入隊して下士候隊を卒業したての、十九歳ばかりの、それこそ火の玉のように張り切った男だった。もちろん、私より数年も若いのだ。

「三田候補生。下腹に力を入れ、両脚を開け。眼を閉じ、歯を喰いしばれ! 何で呼ばれたか判っているか。人が見ている、見ていない、それによって、行動が変ってよいか」

「………」

「お前はやがて将校になる兵隊だ。将校とは皇軍の根幹だ。心にやましくして、部下を率いられると思うか」

「心の弱い者には、班長はこのような教育はしない。心の強い者には、強い教育が必要なんだ!」

飯田伍長は激しい言葉でそう叫ぶと、身構えた。カチャと、帯革のサンカン(バックルというか尾錠というか)が鳴った。私は眼をつむったまま、これは大変だゾと心で身構えた。眼を傷つけない

ようにギュッとつぶり、ホオの肉をちぢめて、口の中を歯で切らないように力を入れた。

ビシリーッ、あの幅広の兵隊バンドが、私の下アゴに喰い入ると、その先のサンカンが反対側の首すぢにビシッと当る。班長がバンドを引ッ張ると、よろめく私は、たちまち次の一撃を喰って立止る。ビシリーッ、ビシリーッ。

私の耳と、眼を、故意にさけているその叩き方に、班長の〝愛情〟が感じられて、私は冷静に眼を見開いた。背の高い私に、班長は躍り上るような感じで、帯革を振う。だが、その両眼からは、大粒の涙がさんさんと流れ出ているではないか。

「三田、覚えていろ! 強い奴には強い教育が必要なンだゾォ!」

十九か二十歳のその班長は、それこそオロオロ声で泣きじゃくりながらも、一点を凝視しながら立っている私に、なお、帯革ビンタを振いつづけていた。——この男も、南方に転戦して連隊と一緒に、あの焔のような生命を消してしまったと聞いている。

この松木次長には、ただの一度だけれども、教官らしく教えられたことがある。兵器の部品輸送の包装紙として、古新聞の供出運動が行われた。私はその記事の中で、「一世帯あたり三十枚の割当も、〝古新聞も兵器だ〟の合言葉に応じて……」と書いたものである。

第一夕刊のその記事には、〝古新開も兵器だ〟という見出しが使われていた。インクの香も快よい刷り上りの夕刊をみて、松木次長はいった。

「見出しに使える言葉を、原稿の前文に入れるのだ。それが原稿の優劣さ」と。

ニコリともしないこの一言が、松木次長の教育らしくない教育の中での、たった一度だけの教青らしい教育だった。

最後の事件記者 p.266-267 台地一帯に散らばった三田小隊五十四名

最後の事件記者 p.266-267 明十五日未明、ソ軍戦車集団が新京南郊外へ来襲する。タコツボに潜んだ。今度こそ最後だと思った。一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。
最後の事件記者 p.266-267 明十五日未明、ソ軍戦車集団が新京南郊外へ来襲する。タコツボに潜んだ。今度こそ最後だと思った。一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。

松木次長はいった。
「見出しに使える言葉を、原稿の前文に入れるのだ。それが原稿の優劣さ」と。

ニコリともしないこの一言が、松木次長の教育らしくない教育の中での、たった一度だけの教青らしい教育だった。

恵まれた再出発

ソ連軍を迎えて

八月十五日。私たちは意外にも北支から満州へ転進して、すでに満ソ国境に布陣していた師団主力へ追及できず、新京に止まっていた。すでにソ軍は満領へ侵入を開始していたので、私たちの大隊は新京防衛部隊に編入された。

八月十四日の命令で、明十五日未明、有力なるソ軍戦車集団が、新京南郊外へ来襲するというので、各隊はそれぞれ徹夜で陣地構築に努めていた。私の隊は、全満随一の文化設備を誇った錦ヶ丘高女に宿営し、日本間の作法室で、金ビョウブに抹茶茶碗でハンゴウ飯を食べたりして、最後の日本気分を味ったのち、タコツボに潜んだ。

湧き水が冷たく尻をぬらす。今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。ジッと前方の闇をすかしてみる。地

に耳をつけて、キャタピラの轟音を聞きとろうとする。何と死への時間の空しく退屈だったことか。

読売同期の秀才、大阪読売社会部次長の青木照夫とは、東京駅で手を握り合って、「大本営報道部で会おうな」と別れた。身に軍服をまとおうとも、新聞記者でいたかったのである。私としても、再び社へ帰って、鉛筆を握れる日があろうとは、期待もしてみなかったことである。

短かいながらも、新聞記者になって、精一杯働いたのだから、もう思い残すことはなかった。あとは、軍人として祖国のために死んでゆけることを、わずかに誇りとしなければならないことが、残されているだけだ。

ジッと回想にふける。南の空はまだ暗い。銃声一つ、しわぶき一つ聞えない静寂だ。この台地一帯に散らばった、三田小隊五十四名が、それぞれに、考えにふけっているのだろう。昨夜、錦ヶ丘高女の教員室で、電話帖をめくって、読売新京支局を探し出した。

一言、別れの言葉を本社に、そして母親に托したかった。もしかしたら、社会部の先輩が支局長でいるかも知れぬ。受話器を耳にあてて、胸をドキドキさせて待っていたが、リーン、リーンと、空しくコーリングが鳴るだけ。時間に余裕があれば、馬を飛ばしてでも行ってみたかった。

教員室に一人女学生がいた。その日、学校で行われる篤志看護婦試験をうけようと、やってきた子だった。去り難いのか、女の先生と二人で何やら話し合っていた。

「兵隊さんは、お国どちらですか」

最後の事件記者 p.268-269 読売新聞の徳間康快特派員

最後の事件記者 p.268-269 「〇〇にて徳間特派員発」の文字! どうして奴は兵隊に行かなかったのだろうか。あんなに良い身体をしていて! 彼はやはり読売の同期生だった。私は口惜しくて、その夜はねむれなかった。
最後の事件記者 p.268-269 「〇〇にて徳間特派員発」の文字! どうして奴は兵隊に行かなかったのだろうか。あんなに良い身体をしていて! 彼はやはり読売の同期生だった。私は口惜しくて、その夜はねむれなかった。

教員室に一人女学生がいた。その日、学校で行われる篤志看護婦試験をうけようと、やってきた子だった。去り難いのか、女の先生と二人で何やら話し合っていた。
「兵隊さんは、お国どちらですか」

先生の声に、私は受話器をおいた。

「東京です。読売新聞にいたんです」

「マア、東京!? あたくしも!」

女学生がハズンだ声を出した。聞けば、巣鴨の十文字高女から昨秋転校してきたのだという。五中生の私と、話が佳境に入ろうとした時、伝令が迎えにきた。

「大隊長殿のもとに准士官以上集合です」

「あの女学生はどうしたかナ。そういえば、オレは駄菓子の袋に残すべき、署名原稿をとうとう書かなかった。

「読売新聞シベリア特派員」

——徳間の奴!

その年の早春、まだ見習士官で駐屯地の古年次兵の教官をしていた時、時局解説というのを週一度やっていた。ネタは、一週間おくれで、一週間ぶんが一度にとどく、華北新報という新聞だった。

ランプの中隊事務室で、学科の準備のために新聞をひろげた時、私は思わずガク然としたのだった。

一面トップに、「地下飛行機工場について、読売新聞の徳間康快特派員は、次のように報じて

いる」とあるではないか。つづいて、「〇〇にて徳間特派員発」の文字!

——どうして奴は兵隊に行かなかったのだろうか。あんなに良い身体をしていて!

彼はやはり読売の同期生だった。私は口惜しくて、その夜はねむれなかった。軍服を着ている自分がうらめしかった。どうして、私は記者として社へ残れなかったのだろうか。社へ残った徳間は、もう署名原稿を書いているではないか。

朝があけてきた。まだ、ソ軍戦車はやってこない。やがて正午の玉音放送だった。

昨夜の断腸の思いの、新聞記者への別れも、再びつながれた。ベストを尽した試合が、敗戦に終った感じだった。解放感がこみあげてきた。私の心ははや東京へと飛んで、「再びペンを握れる!」というよろこびで、もう一ぱいだった。

部隊は武装解除されて、シベリアへと送られた。だが、私は「読売新聞シベリア特派員」だったのである。出発前には、錦ヶ丘高女の女学生の家をたずねたり、日本人家屋から日用日露会話という、ポケットブックを探しだしてくるほど、張切っていたのである。

「三田さんは読売本社なら東京ですな」

「エエ、東京で逢いましょう」

「短気を起さず、身体に気をつけてな」

その人は、今、池袋で法律書を出版している、大学書房の石見栄吉氏だった。私がたとえシベリアで倒れても、消息はこれで、東京へと伝わろう。私は明るく別れをつげた。

最後の事件記者 p.270-271 第二次争議が終ったばかりの読売

最後の事件記者 p.270-271 第一次、第二次の争議で、激動期の読売から去っていってしまった。北海道の国鉄職場離脱闘争を指導した、日共本部派遣のオルグ山根修や、東京民報へいった福手和彦や徳間康快である。
最後の事件記者 p.270-271 第一次、第二次の争議で、激動期の読売から去っていってしまった。北海道の国鉄職場離脱闘争を指導した、日共本部派遣のオルグ山根修や、東京民報へいった福手和彦や徳間康快である。

私は日露会話の本で、輸送間に警戒のソ連兵にロシア語を習った。沿線の風景をはじめ、見聞するすべてを頭の中へメモした。

ロシア語はたちまち上達して、取材は八方へとひろげられた。作業へ出ると、警戒兵を買収して、一緒に炭坑長や現場監督の家へも遊びに行った。労働者の家庭生活をみるためである。身分は、たとえ軍事俘虜であろうとも、私は読売特派員だ。腹にまいた正力松太郎の署名入り日の丸と社旗とは、あの地獄のような生活の中でも、新聞記者として私を元気づけてくれたのだった。

「またペンが握れる」

こうして丸二年、私は不屈の記者魂を土産に持って、再び社に帰ってきた。第二次争議が終ったばかりの読売には、同期十名のうち半分はいなくなっていた。つまり兵隊に行かなかった連中は、すべて、第一次、第二次の争議で、激動期の読売から去っていってしまっていた。迎えてくれたのは東京社会部の労働班長金口進一人だけだった。

去っていったのは、北海道の国鉄職場離脱闘争を指導した、日共本部派遣のオルグ山根修や、東京民報へいった福手和彦や徳間康快である。その中、連絡のとれているのは、アサヒ芸能社長の徳間だけだ。

私の仕えた初代社会部長小川清も去り、宮本太郎次長はアカハタ紙へ転じ、入社当時の竹内四郎筆頭次長(現報知新聞社長)が社会部長に、森村正平次長(現報知編集局長)が筆頭次長になって

いた。昭和二十二年秋のことだ。

東京に帰りついた翌日、私は出社した。二年間の捕虜生活も、新聞記者にもどったよろこびで身体は元気一ぱい、何の疲れもなかった。竹内部長はきさくに片手をあげて、編集の入口でマゴついている私を呼んだ。森村次長が早速いった。

「何か書くかい? 書けるかい?」

「エー、もちろん、書かせて下さい」

森村次長は、捕虜から帰ったばかりの私が、使いものになるかどうかみようと思ったらしい。私はその日帰宅すると、徹夜でシベリア抑留記を書いて持っていった。

「ウン、つまらんね」

軽くイナされてしまった。私は実のところ、何を書いていいか判らなかったのだ。森村次長はただ「書くかい?」といっただけ。私は心中腹を立てて、その原稿を取りもどすと、またその夜も徹夜した。今度は、新聞記者のみた、シベリア印象記を書いた。

「ウン、これなら使える。御苦労さん。しばらく、挨拶廻りもあるだろう。休んでいいよ」

やっと、ネギライの言葉がもらえた。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一枚ペラ(表裏二頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をボトボトと、紙面に 落した。

最後の事件記者 p.272-273 人々が物交をせがんだ

最後の事件記者 p.272-273 一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。
最後の事件記者 p.272-273 一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。

数日後、私は郷里の盛岡で、驚きと感激に胸をつまらせながら、読売新聞をみつめていた。一枚ペラ(表裏二頁)の新聞だというのに、裏の社会面の三分の二を埋めて、私のはじめての、署名原稿が、デカデカと出ているではないか。その記事を読みながら、私は涙をボトボトと、紙面に

落した。

——生きていてよかった。兵隊も捕虜も、この日のための苦労だったのだ。

しみじみとした実感だった。あの玉音放送の時の、躍り上らんばかりのよろこび、「またペンが握れる」が、昨日のように、胸に迫ってきた。

署名入り処女作

昭和二十二年十一月二十四日(月)

抑留二年、シベリア印象記            本社記者 三 田 和 夫

ナゾの国ソ連と呼ばれた通り、この国で見たもの聞いたものには、ついにナゾのままで終ったことが多かったが、うかがい得た限りでは、いろいろと興味あることばかりであった。入ソしたわれわれは、いたるところで大歓迎をうけた。というのは、列車が停るたびごとに、食料品や煙草を抱えた人々が押しよせてきて、物交をせがんだのだった。

一人の兵隊が、試みに赤フンを外して差出すと、女たちが殺到してきて奪いあったが、やがて彼は、得々として赤フンを頭に被った女から、沢山の煙草をもらって当惑してしまった。

子供に鉛筆をネダられた母親は、新しい一本の鉛筆の代償に、バケツ一杯のジャガ芋を車中へほうりこんでくれた。軍用石ケンを鼻に押しあてて、匂いをかぎながら喜ぶ娘たち、吸いかけのタバコをせがむハダシの子供、ライターをみて逃げ出す男、ピカピカ光る爪切りをみて、何か判

らずヒネリ廻す将校と、あらゆる階級の老若男女が集ってきた。

そして満州からシベリアに向う軍事列車は、兵器の上に在留邦人の家庭から持ってきたらしいイス、机から、ナベ、カマ、額ぶちにいたるまで、山と積んで、我々を追い越していった。

勤労者と農民の祖国と謳い、真の自由の与えられた、搾取のない国と誇る社会主義国家の現実は、こうしてわれわれに、ただ驚異を与えながら展開していった。もちろん、流刑植民地という極北の特殊地帯シベリアの、一炭坑町チェレムホーボにあって、抑留二年の間に私が見聞したことどもが、あの独ソ戦を戦い抜いた、ソ連の姿のすべてでないことはいうまでもない。

日本人の入ソ以来、軍の被服は街にはんらんした。男も女もカーキ色の軍服を着ている。被服類の不足は一番はげしく、われわれも収容所内では、ソ連の将校や兵隊に奪われるため、どんどん地方人たちと交換をした。

雨具などもちろんなく、二年間に街中でコーモリをさした人を二人みかけただけで、男も女もみな雨にぬれながら平気な顔をして歩き、また働いていた。クツ下はパルチヤンキと呼ぶ四角い布で、それを巧みに足に巻いた。粗衣という言葉があるが、彼らには粗衣もなかった。

×   ×   ×

「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働かないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。