投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

最後の事件記者 p.394-395 読売新聞が〝幻兵団〟をあばいた

最後の事件記者 p.394-395 当局では「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるがやむを得ない。
最後の事件記者 p.394-395 当局では「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるがやむを得ない。

この時、当局の中に、このソ連船を捕えるべきでなく、関が埋没した連絡文書や現金を掘り起しにくる、国内の潜伏スパイを捕えるべきだったとの意見もおきた。だが、実際問題としては、関が帰任して埋没地点を報告しなければ、国内にいる無電スパイは掘起しに現れないのだから、関のような低級な人物では、逆スパイになること(日本側に捕まり、一切を自供しているにもかかわらず、無事任務を果したように、帰任し報告する)は、不可能だったろう。

はじめ、私の「幻兵団」を、〝大人の紙芝居〟と笑っていた当局は、三橋事件につぐ関事件でようやく外事警察を再認識せざるを得なくなってきた。つまり、戦後に外事警察がなくなってからは、その経験者を失ったことで、そのような着意を忘れていたのだが、「幻兵団」の警告によって、ようやく当局は外事警察要員の教養を考え出したのである。

そのためには、ソ連は素晴らしい教官だったのである。三橋事件では、投入スパイ、連結スパイ、無電スパイの実在を教えられたし、関事件では、その他に潜伏スパイの存在を学んだのであった。

こうして、読売新聞が〝幻兵団〟という、幻想的な呼び名をつけて、その編成や組織の一端をあばいたソ連の対日スパイ網は、逐次、事件となってその姿を現わしはじめた。まぼろしのヴェールをずり落したのだった。実に、具体的ケースに先立つこと三年である。

当局では改めて「幻兵団」の研究にとりかかった。ソ連引揚者の再調査が行われはじめた。スパイ誓約者をチェックしようというのである。遅きにすぎた憾みはあるが、当局の体制が整っていなかったのだし、担当係官たちに、先見の明がなかったのだからやむを得ない。「幻兵団」の記事が、スパイの暗い運命に悩む人たちを、ヒューマニズムの見地から救おう、という、〝気晴らしの報告書〟の体裁をとったため、文中にかくれた警告的な意義を読みとれなかったのであろう。

(写真キャプション スパイ事件は自分の体験を生かしてベテランに)

三橋事件の取材競争

三橋事件の取材競争は、斉藤国警長官の発言から、各社同時にはじまった。氏名を伏せて、 東京郊外に住んでいるというだけだから、いわば、雲をつかむような話だが、どうにか、保谷の三橋正雄とだけは判った。この名前割り出しは、三橋某で朝日、読売、毎日の順序。フルネームが判ったのが、朝日がトップで、読売と毎日が同時であった。

次は保谷の住所である。これは日経、読売、毎日の順、ともかく十三日付朝刊の都内版には各紙いずれも同じ歩調で出揃ったのである。十二日夜の保谷、田無一帯は、一社二、三台の車計二、三十台の車が、三橋の家を探しもとめて東奔西走。そのヘッド・ライトが交錯して、大変美しい夜景だったというから、如何に凄まじ

い競争だったか判るだろう。

最後の事件記者 p.396-397 本紙がほとんど独走の形である

最後の事件記者 p.396-397 もう全く私の独走だった。自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。
最後の事件記者 p.396-397 もう全く私の独走だった。自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

次は保谷の住所である。これは日経、読売、毎日の順、ともかく十三日付朝刊の都内版には各紙いずれも同じ歩調で出揃ったのである。十二日夜の保谷、田無一帯は、一社二、三台の車計二、三十台の車が、三橋の家を探しもとめて東奔西走。そのヘッド・ライトが交錯して、大変美しい夜景だったというから、如何に凄まじ

い競争だったか判るだろう。

その後は、原稿を送る電話の争奪戦、さらに今度は留置されている警察の探しッくら。毛布を冠せて横顔すら見せない、三橋の写真の撮り競べと、オモチャ箱を引繰り返したような騒ぎだった。

だが、こうして基礎取材競争が終ってからというものは「幻兵団」のデータが揃っているだけに、もう全く私の独走だった。十三日の夕刊で早くも自供内容を全部スクープしてしまった。それは五年間も調べつづけて、ほとんど完全にデータを持っているものと、そうでないものとの違いである。

ここに、同じ〝事件〟であっても、刑事部の捜査一課事件の、殺人(コロシ)強盗(タタキ)などの、偶発的非組織事件と、計画的、組織的事件との違いがある。同じ刑事部事件でも、捜査二課となると、やはりこのコロシ、タタキとは違って、記者の平常の勉強が問題になってくる。

この三橋事件当時の、記事審査日報、つまり社内の批評家の意見をひろってみると、「三橋の取調べの状況については、各紙マチマチで、毎日は(鹿地氏との関係はまだ取調べが進まず……)とし、朝日は(当面鹿地との関連性について確証をつかむことに躍起になっている)と一段の小記事を扱っているにすぎないが、これに反し本紙は、三橋スパイを自供す、と彼が行ってきたスパイ行為の大部分の自供内容を抜き、特に問題の中心人物鹿地が藤沢で米軍に逮捕された時も、三橋とレポの鹿地が会うところを捕えられたのだと、重要な自供も入っているのは大特報だ」と、圧倒的なホメ

方である。

これが十三日付夕刊の批評で、十四日朝刊は、「朝毎とも、三橋の自供内容は、本紙の昨夕刊特報のものを、断片的に追いはじめている」とのべ、さらに夕刊では、「昨夕刊やこの日の朝刊で、朝毎が本紙十三日夕刊の記事をほとんどそのまま追い、本紙もまたこの夕刊で、現在までに取調べで明らかになった点、として改めて本紙既報のスクープを確認している。こうして三橋がアメリカに利用されている逆スパイであることが、確認されてみると、十三日夕刊の特ダネは、大スクープであったことが裏付けされたわけで、特賞ものである」と、手放しである。

十五日には「朝毎は相変らず、本紙十三日夕刊の記事を裏付ける材料ばかりだ」十六日になると、「本紙は今日もまた三橋関係で、第二の三橋正雄登場と、二度目の大ヒットを放ち、第一の三橋が紙面でまだハッキリと固まらず、何かモヤモヤを感じさせている際であるから、この特報はまたまた非常に注目された。本紙のこの特報で、いよいよナゾが深まり、問題はますますスリルと興味のあるものとなった」十八日には「三橋の第一の家は本紙の独自もので、大小にかかわらず、本紙がほとんど独走の形であるのは称賛に値する」と、私の独走ぶりを、完全に認めてくれている。

古ハガキ紛失事件

年があけて、三橋は電波法違反で起訴になり、その第一回公判が六日後に迫った。二十八年二

月一日、記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

最後の事件記者 p.398-399 国警都本部のやっている重要犯罪?

最後の事件記者 p.398-399 心やすだてにザックバラン調だ。「じゃ、今すぐ探してくれよ」 「フフフ、モノになったら御挨拶をしなきゃダメよ」「ウン。今日のお茶はボクがオゴるよ」 「それでお終いじゃなくッてよ」
最後の事件記者 p.398-399 心やすだてにザックバラン調だ。「じゃ、今すぐ探してくれよ」 「フフフ、モノになったら御挨拶をしなきゃダメよ」「ウン。今日のお茶はボクがオゴるよ」 「それでお終いじゃなくッてよ」

古ハガキ紛失事件
年があけて、三橋は電波法違反で起訴になり、その第一回公判が六日後に迫った。二十八年二

月一日、記者のカンから探り出した大スクープが、この三橋事件でのサヨナラ・ホーマーとなった。鹿地証拠の古ハガキ紛失事件がそれである。

その日のひるころ、今のそごうのところにあった診療所へ寄って、外へ出てきたところを、バッタリとラジオ東京報道部員の、真島夫人に出会った。彼女は時事新報の政治部記者だったが、読売の社会部真島記者と、国会で顔を合せているうちに〝白亜の恋〟に結ばれて結婚、KRに入社した人だった。

ヤアというわけで、喫茶店に入ってダベっているうちに、フト、彼女が国警から放送依頼があったということを話した。都本部の仙洞田刑事部長が、何かの紛失モノを探すための放送依頼を直々に頼みにきたという。

なんということのない座談の一つであったけれども、私には刑事部長が自身できたという点がピンときた。放送依頼などというのは、やはり捜査主任の仕事である。警察官としての判断によれば、主任クラスが行ったのでは、放送局が軽くみるのではないか、やはり部長が頼みに行くべきだ、とみたのであろうが、それは、ゼヒ放送してほしいという客観情勢、つまり大事件だということである。

「その書類があるかい?」

私も国会で彼女には顔なじみ、どころか、二人を最初に紹介したのが私だから、奥様ではあるが、心やすだてにザックバラン調だ。

「エエ、私が放送原稿を書いて、アナウンサーに渡したから、まだキットあるでしょ」

「じゃ、今すぐ探してくれよ」

「フフフ、モノになったら御挨拶をしなきゃダメよ」

「ウン。今日のお茶はボクがオゴるよ」

「それでお終いじゃなくッてよ」

二人はすぐ向いのKRへとって返した。書類はすぐみつかった。刑事部長の職印がおしてあり、面会した鈴木報道部長に確かめてみると、依頼にきたのは間違いなく仙洞田部長その人である。

さて、依頼の文面は「一月十七日午後七時ごろ、国電日暮里駅常磐線下りホーム、または電車内におちていた、古ハガキ一枚在中の白角封筒を拾った方は至急もよりの交番に届けてほしい。これは重要犯罪捜査上、ぜひ必要なものです」とある。

KRでは、一月二十日に頼まれ、翌二十一日午後一時二十五分の、「生活新聞」の時間に放送している。

——国警都本部のやっている重要犯罪?

私はその原文をもらいうけて、KRを出ながら考えてみた。当時、都本部では、マンホール殺人事件(のちにカービン銃ギャング大津の犯行と判った)と、青梅線の列車妨害事件の二つだけしかなかった。

——どちらも、刑事部長が頼みにくるほどの事件じゃないし、第一、ここ数日動きがないのだし

二十日の依頼だから、動いていればもう表面化するはずだ。

最後の事件記者 p.400-401 ヘッ! おとぼけはよそうョ

最後の事件記者 p.400-401 これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの、ハガキで結びつきを立証するとすれば、鹿地の直筆で、三橋へあてたレポのハガキということになる。
最後の事件記者 p.400-401 これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの、ハガキで結びつきを立証するとすれば、鹿地の直筆で、三橋へあてたレポのハガキということになる。

国誉カブトを脱ぐ
当時、三橋の身柄は起訴されてから一カ月もたつというのに、まだ八王子地区署におかれてあった。支局でずっと三橋の動静をみている記者に聞いて、調べ官の異動の有無を調べると、あった、あった、ドンピシャリだ。

二十日の放送依頼日から、事件発生以来、三橋を手がけていた永井警部に代って、佐藤警部が担当官となり、永井警部は全く事件から手を引いてしまったという。

私はこおどりしてよろこんだ。事件はやはり三橋だったのである。そこで私は、これまでつか

んだ事実から、推理を組み立てる。

紛失物は古ハガキ。なくした人は永井警部一人。他に処分者がいないからだ。すると紛失時の状況は彼一人ということだ。捜査に出かける時は、刑事は必ず二人一組になるから、捜査ではない。

紛失時間が夜の七時。彼の家が常磐沿線だから、これは帰宅の途中。しかも翌日は日曜日だから、迫ってきた公判の準備に、自宅で調べものをしようと、書類を持ちだして、駅のホームで、雑誌か何かをカバンから取り出した時に、一しょにとび出して落したものだ。

三橋事件の古ハガキで重要なもの、三橋の焦点は鹿地との結びつきだから、これほどの大騒ぎをするとすれば、その結びつきを立証するもの、ハガキで結びつきを立証するとすれば、鹿地の直筆で、三橋へあてたレポのハガキということになる。

こう結論を出した私は、はやる心を抑えてその日の取材を終った。翌二日、まず仙洞田部長へ当ってみる。この取材が〝御用聞き取材〟ではないということだ。

「部長、マンホールや列車妨害なぞの小事件で、部長が直々に放送を頼みにいって、ペコペコしたら貫禄が下がるよ」

「なんだい? ヤブから棒に放送なんて」

「ヘッ! おとぼけはよそうョ。だって、重要犯罪の捜査のために、なくした古ハガキを探して下さいって、頭を下げたろうが……。大刑事部長の高い頭をサ」

彼の眼に、チラと走るものがある。

最後の事件記者 p.402-403 スパイ操縦者だったラストボロフ

最後の事件記者 p.402-403 ソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消した。ラ中佐は、在日ソ連スパイ網について供述した。失踪が明らかになると、志位正二元少佐は保護を求めて出頭してきた。
最後の事件記者 p.402-403 ソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消した。ラ中佐は、在日ソ連スパイ網について供述した。失踪が明らかになると、志位正二元少佐は保護を求めて出頭してきた。

「部長、マンホールや列車妨害なぞの小事件で、部長が直々に放送を頼みにいって、ペコペコしたら貫禄が下がるよ」
「なんだい? ヤブから棒に放送なんて」
「ヘッ! おとぼけはよそうョ。だって、重要犯罪の捜査のために、なくした古ハガキを探して下さいって、頭を下げたろうが……。大刑事部長の高い頭をサ」

彼の眼に、チラと走るものがある。

「都本部が、この上、三橋以上の重要犯罪をやりだしたら、こちらがもたないよ。エ? 三橋以上の大事件をサ!」

三橋といって、表情をみる、人の良さそうなニヤリが浮ぶ。KRから借りてきた書類を突きつける。またニヤリが浮ぶ。

「いずれにせよ、私は知らないよ」

この答弁をホン訳すると、「そうです。三橋事件ですが、私は、詳しいことを知りません」ということだ。反応は十分だ。もうここまでくれば、上の者にいわせねばならない。

次は片岡隊長だ。彼は殉職警官のお葬式にでかけていたので、これ幸いと電話をかけて呼び出す。

「隊長! 例の紛失モノはどうしました」

「エ? 何だって?」

「ホラ、ラジオ東京に頼んだ、三橋事件の証拠品のハガキは、出てきましたか?」

「ア、それは警備部長の後藤君に聞いてくれよ」

ズバリ切りこまれて、隊長は本音をはいてしまった。——こうして、当局は否定したけれども、翌三日のトップで出ると、ついに国警本部の山口警備部長が認めた。

その日の審査日報も引用しておこう。「紛失した鹿地証拠は、誠にスッキリとした鮮やかなス

クープで、最近の大ヒットである。国警にウンといわせ得なかったのは残念だが、放送依頼書の複写がそれを補っている。関係者の談話も揃って、全体に記事もよくまとまっている」夕刊「鹿地証拠紛失はついに国響もカブトを脱いで、その事実を認めた」

ラストボロフ事件

三橋事件の余波が、いつか静まってきた、二十九年一月二十四日、帰国命令をうけていたソ連代表部二等書記官、ユーリ・A・ラストボロフが、大雪の中に姿を消してしまったという、ラ事件が起きた。ラ書記官の失踪はソ連代表部から警視庁へ捜索願いが出たことから表面化したのだが、その外交官は、実は内務省の政治部中佐で、スパイ操縦者だったというばかりか、失踪と同時に、米国へ亡命してしまったということが明らかになった。

この事件ほど、当局にとって、大きなショックだったことはあるまい。米側の手に入ったラ中佐は、直ちに日本を脱出、在日ソ連スパイ網について供述した。その間、日本側が知り得たことは、ラ中佐の失踪を知って、警視庁へ出頭してきた、志位正二元少佐のケースだけである。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

最後の事件記者 p.404-405 形は自殺であっても〝殺された〟のである

最後の事件記者 p.404-405 この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。日幕、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。
最後の事件記者 p.404-405 この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。日幕、庄司両氏は、「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。

一月二十七日、代表部から捜索願いが出されて、二十四日の失踪が明らかになると、志位元少佐は保護を求めて、二月五日に出頭してきた。二等書記官が実は政治部の中佐、そして、ソ連引揚者で、米軍や外務省に勤めた元少佐参謀。この組合せに、当局は異常な緊張を覚えたが、肝心のラ中佐の身柄が、日本に無断のまま不法出国して、米本国にあるのだから話にならない。

ヤキモキしているうちに、米側から本人を直接調べさせるという連絡があり、七月中旬になって、公安調査庁柏村第一部長、警視庁山本公安三課長の両氏が渡米して、ラ自供書をとった。

両氏は八月一日帰国して裏付け捜査を行い、日暮、庄司、高毛礼三外務事務官の検挙となったのだ。もっとも五月には、米側の取調べ結果が公安調査庁には連絡された。同庁では柏村第一部長直接指揮で、外事担当の本庁第二部員をさけ、関東公安調査局員を使って、前記三名の尾行、張り込みをやり、大体事実関係を固めてから、これを警視庁へ移管している。

この事件は、つづいて日暮事務官の自殺となって、事件に一層の深刻さを加えた。東京外語ロシア語科出身、通訳生の出身、高文組でないだけに、一流のソ連通でありながら、課長補佐以上に出世できない同氏の自殺は、一連の汚職事件の自殺者と共通するものがあった。現役外務省官吏の自殺、これは上司への波及をおそれる、事件の拡大防止のための犠牲と判断されよう。そして犠牲者の出る事実は、本格的スパイ事件の証拠である。

スパイは殺される

ソ連の秘密機関は大きく二つの系統に分れていた。政治諜報をやる内務省系のMVDと、軍事諜報の赤軍系のGRUである。三橋のケースはGRU、ラ中佐はMVDであった。第二次大戦当時、ソ連の機関に「スメルシ」というのがあった。これはロシア語で、〝スパイに死を!〟という言葉の、イニシアルをつづったものだ。

だから、〝スパイは殺される〟という。このラ事件の日暮事務官、三橋事件の佐々木元大佐など、いずれも形は自殺であっても、この不文律で、〝殺された〟のである。日暮事務官はなぜ死んだか? もちろん、東京地検で、取調べ中の飛び降り自殺だから、遺書などあり得ようはずがない。

高毛礼元事務官の一審判決は、「懲役一年、罰金百五十万円」である。彼は報酬として四千ドル(百四十四万円)をソ連からもらっているので、この罰金がついたのである。納められなければ一日五千円に換算して、労役場へ留置する、とあるから、これが三百日になる。合計して一年十カ月の刑である。日暮と同じ程度の刑だから、なぜ妻子を残して死なねばならないのだろうか。

終戦時の在モスクワ日本大使館。そこでは佐藤尚武大使以下、在留日本人までが館内に軟禁されていた。そして、この軟禁につけこんで、ソ連側ではスパイ獲得工作の魔手をのばしてきた。「幻兵団」と同じである。

これは、ラストボロフの自供した、ソ連代表部のスパイ一覧表をみれば明らかだ。ラ中佐の亡命時に、狸穴の代表部直結のスパイは四十八名いた。これを所属別に分類すれば、MVD四十三名、GRU三名、海軍二名、人種別では、日本人三十五名、白系ロシヤ人七名、その他の外国人六名となっている。

三十五名の日本人をさらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日幕、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく

「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

最後の事件記者 p.406-407 朝日が日暮、庄司の逮捕をスクープ

最後の事件記者 p.406-407 彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に落ちてニジンだ。
最後の事件記者 p.406-407 彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に落ちてニジンだ。

三十五名の日本人をさらに分類すると、戦後ソ連抑留者二十名(幻兵団)のほか、外務省官吏、新聞記者、旧将校らとなっている。日幕、庄司両氏は、終戦時にモスクワにいたばかりではなく

「新日本会」というソ側への協力団体のメムバーだった。ことに日暮は佐藤大使の秘書的な立場にいたので、逮捕された三人のうちでは一番重要な人物と目されていた。

彼らが逮捕された時の、みじめな私を忘れることができない。八月十四日の公安三課のラ事件のその後の経過発表も、私の公休日という悲運だった。しかも、その時には、すでに日暮、庄司両氏を逮捕していたのである。私は休日出勤してきて、かねて準備していた、志位元少佐の記事を書いた。これはスクープではなかったが、読売が一番詳細、正確な記事だった。

不覚の涙

だが、そのあとがいけない。感じとしては誰かを逮捕しているようなのだが全くつかめない。私用を抱えていた私は、公休日でもあったので、取材をいいかげんで投げ出してしまった。そして、出かけようとした時、一人の親しいニュース・ソースに出会った。

「お忙しそうにどちらへ?」

「イヤ、ちょっと、なに……」

「アア、目黒ですか」

彼は一人で納得してうなずいた。いつもの私なら、ここで「エ? 目黒?」と、ピンとくるはずだったが、それを聞き流してしまったのである。

翌十五日の日曜日朝、私は朝日をひろげてみて、胸をつかれた。不覚の涙がハラハラと紙面に

落ちてニジンだ。朝日のスクープは、一面で日暮、庄司の現役公務員の逮捕を報じているではないか。

しかも、読売は、どうであろうか。「政府高官逮捕説を、警視庁が否定」と、なくもがなの断り書を、小さな記事ではあるが、出しているのである。昨夜、電話で、「警視庁は誰も逮捕していないと、否定していますよ」とデスクに断ったのが、記事になっている。確かに、平事務官なのだから、〝政府高官〟ではないかもしれない。しかし、朝日が逮捕をスクープして、読売が否定しているのでは、あまりの醜態であった。デスクが、「じゃ断り書を記事にしておこう」といった時、私は「そんなのは、デスクの責任逃れだ」と思っただけで、あえて反対しなかったのも、痛恨の限りであった。

調べてみると、この両名の逮捕は、警視庁が極秘にしていたのを、この事件を防諜法制定の道具に使おうと思っていた緒方副総理が、朝日の政治部記者へ洩らしたのだ、といわれている。その上、「目黒へ」といった係官から聞けば、彼は私が急いでいたので、ちょうどまだガサ(家宅捜索)をやっていた、目黒の庄司宅へ行くのだと思ったという。つまり、私がすでに庄司、日暮の逮捕を知っているものだと極めこんでいたのであった。

私は泣いた。これほどの醜態はなかった。取材源が警視庁だろうが、内閣だろうが、新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。取材源や取材の経過などは、それほど問題ではないということだ。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

最後の事件記者 p.408-409 刻一刻、血が流出—死ぬのかな!

最後の事件記者 p.408-409 帰宅したのは午前四時、くずれるように眠りこんだが、母に叩き起された。血まみれの胎児はまだ臍帯をつけたまま、何かボロ屑のように投げ出されて、産婆さんが狼狽しきっている。
最後の事件記者 p.408-409 帰宅したのは午前四時、くずれるように眠りこんだが、母に叩き起された。血まみれの胎児はまだ臍帯をつけたまま、何かボロ屑のように投げ出されて、産婆さんが狼狽しきっている。

私は泣いた。これほどの醜態はなかった。取材源が警視庁だろうが、内閣だろうが、新聞記者には、「紙面で来い」というタンカがある。取材源や取材の経過などは、それほど問題ではないということだ。「紙面に現れた結果」で、勝負を争う実力の世界である。

私は特ダネ記者といわれた。それがこのていたらくであった。もちろん、私の記録の中にも、輝かしいものばかりではない。失敗のみじめな歴史も多い、だが、この時ほどに、ニガイ思い出はない。

横井事件の犯人隠避も、惨敗の記録ではある。しかし、これは爽快な敗け戦である。思いかえしてみて、いささかも恥じない、快い記憶である。「紙面で来い!」と、タンカをきりそこねたのである。しかも、私の先手を警察に奪われて、警察の先手を、また奪い返したからである。

スパイ事件は私のお家芸であったのだ。それで、あの三橋事件の勝利も、自信をもって戦えたからである。それなのに、最後の「目黒へ?」という言葉も、聞き流してしまうとは!

朝日をみつめながら、私のホオはまだ涙でぬれていた。

記者は悲し

八月二十八日、日暮事務官が飛び降り自殺をした。この日も私は公休日であった。前夜から、雑誌原稿を徹夜で書き続けていたが、ラジオは入れっぱなしだ。やがて正午のニュースが、自殺事件を伝えた。

——迎えが来るナ。

もう数枚で原稿は終るところだ。そう感じていると、ちょうど書きあげた時、迎えの自動車がきた。

妻は二度目のお産で、もう予定日だった。二度目だから自宅で生むという。そのため、この八月へ入ってから、何かと雑用の多い毎日だったのである。日暮事務官の自殺とあれば、事件はいよいよ深刻化しよう。もしかすると、今夜は帰れないかもしれない。私は、妻の手を握って、その旨を話し、無事にお産を済ませるようにと、激励した。一睡もしないまま、社へ出た。

それから丸一日、取材のため駈けずり廻って、社会面の全面を埋める、「ラストボロフ事件の真相」という原稿を、数人の記者たちとまとめた。三部作である。

第一部が、志位自供書、第二部、捜査経過、第三部の解説——最終版の校正刷りを見終って、帰宅したのは午前四時、くずれるように眠りこんだが、約一時間ほどで母に叩き起された。

「アト産が出ないので、出血が止らないのよ。すぐお医者さんを呼んできて……」

隣の部屋に入ってみると、血まみれの胎児は、まだ臍帯をつけたまま、何かボロ屑のように投げ出されて、産婆さんが狼狽しきっている。妻は、もう顔面が蒼白、力ない表情で私をみる。

暁の町を走って、医者を叩き起した。ドンドン叩いても、返事のないいらだたしさ。事情を話して往診をたのみ、自宅へかけもどってきた。

「オイ、確りしろよ。いま、お医者さんが来るから」

励ましの言葉をかけても、もう妻には答える気力もない。剥離しない胎盤のため、刻一刻、血が流出しているのだ。

——死ぬのかな!

最後の事件記者 p.410-411 妻の死に目と仕事のどちらをとる

最後の事件記者 p.410-411 私は二日間の完全な徹夜で疲れ切っていた。「子供が生れたそうじゃないか。お祝いだナ」ハシゴで飲み歩いて泥酔した。玄関のドアの外で、私はグッスリとねむりこんでいた。三日目の朝である。
最後の事件記者 p.410-411 私は二日間の完全な徹夜で疲れ切っていた。「子供が生れたそうじゃないか。お祝いだナ」ハシゴで飲み歩いて泥酔した。玄関のドアの外で、私はグッスリとねむりこんでいた。三日目の朝である。

励ましの言葉をかけても、もう妻には答える気力もない。剥離しない胎盤のため、刻一刻、血が流出しているのだ。
——死ぬのかな!

不吉な予感が走る。もし、今夜の仕事が、張り込みにでもなっていたら、どうだったろうか。私は妻の死に目にもあえない!

私は考えた。妻の死に目と、仕事のどちらをとるであろうか、と。

——私は仕事をとるだろう。新聞記者という仕事だから……。

——フン、その場に直面しない、仮説だからそんなことがいえるのだろう。

——バカな、オレは仕事をとるさ。現に今夜だって、もし取材が終らなければ、帰宅しなかっただろう。そうすれば、妻の死に目に会えないじゃないか。仮説じゃないさ。

——そうか。それもよかろう。〝仕事の鬼〟ってところだな。そんなに、仕事が大切なものなら世の常の夫のように、妻のみとりもできないのなら、何故、結婚なンかしたんだ? 妻子が可哀想じゃないか。

——そりゃ、オレだって、家庭がほしいさ。第一、オレは子供を幸福にしてやりたかったんだ。

——フン、御都合主義だナ。それで、仕事と妻の死とでは、仕事をとるというのか。

——新聞記者だもの、仕方がないよ。

——記者、記者っていうけど、新聞記者の仕事って、そんな大切なものなのかい。一体、何なのだね。

——エ?

私は二日間の完全な徹夜で、疲れ切っていた。流血死に近づいてゆく妻のまくらもとで、そん

な自問自答を続けていたが、フト、新聞記者という職業についての、疑問が湧き起ってきた。

抜いた、スクープだ、といって、一体それがなんであろう。抜かれたといって、何であろう。新聞記者という奴は、何者なのだろうか。

医者がきた。血は止った。妻はコンコンと眠りに落ちた。死の影は遠のいた。新生児は産声をあげ、血を洗い流してもらって、安らかに眠っている。もう正午すぎである。

KRからの、ニュース解説の依頼がきて、録音に出かけた。六千円ばかりの謝礼をもらって社へ帰ると、「子供が生れたそうじゃないか。お祝いだナ」と、同僚たちがよってきた。ハシゴで飲み歩いて泥酔した。「新聞記者って何だろ」と考え続けていたようだ。その翌朝、玄関のドアの外で、私はグッスリとねむりこんでいた。三日目の朝である。

立正佼成会潜入記

立正佼成会へスパイ

警察の主任になったり、旅館の番頭などと、芝居心をたのしませながら仕事をしているうちに三十一年になるとまもなく、警視庁クラブを中心とした、立正佼成会とのキャンペーンがはじま

ってきた。

最後の事件記者 p.412-413 防衛庁と通産省があいているのだが

最後の事件記者 p.412-413 「お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。」
最後の事件記者 p.412-413 「お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。」

立正佼成会へスパイ
警察の主任になったり、旅館の番頭などと、芝居心をたのしませながら仕事をしているうちに三十一年になるとまもなく、警視庁クラブを中心とした、立正佼成会とのキャンペーンがはじま

ってきた。

その前年の夏に、警視庁に丸三年にもなったので、そろそろ卒業させてもらって、防衛庁へ行きたいなと考えていた。「生きかえる参謀本部」と、「朝目が覚めたらこうなっていた——武装地帯」という、二つの再軍備をテーマにした続きものを、警視庁クラブにいながらやったので、どうもこれからは防衛庁へ行って、軍事評論でもやったら面白そうだと思いはじめたのであった。

そのころ、名社会部長の名をほしいままにした原部長が、編集総務になって、景山部長が新任された。それに伴って人事異動があるというので、チャンスと思っていると、一日部長に呼ばれた。アキの口は防衛庁と通産省しかない。病気上りででてきていた先輩のO記者が、通産省へ行きたがっていたので、これはウマイと考えた。

「防衛庁と通産省があいているのだが、警視庁は卒業させてやるから、どちらがいい」

という部長の話だった。えらばせてくれるなどとは、何と民主的な部長だと、感激しながら答えた。

「通産省は希望者もいることですから、ボクは防衛庁に……」

といいかけたら、とたんに、

「何いってるンだ。通産省ほど社会部ダネの多い役所はないのに、今までの奴らは、保養のつもりで書きやがらねえ。お前がいって、書けるということをみせてやれ」

と、全く話が変になってしまった。そればかりではない。

「お前のようなズボラを、一人のクラブへ出すのは、虎を野に放つのと同じだという意見もあるんだ。チャンと出勤しろよ。従来の奴が書けないクラブで、お前に書かせようというのだから」

とオマケまでついてしまった。こうして三十年の夏から、通産、農林両省のカケ持ちをやっていたところに、キャンペーンに召集がかかってきた。ヒマで困っていたので、よろこび勇んで、はせ参ずると、ニセ信者になって、佼成会に潜入して来いというのだ。

立正佼成会のアクドイ金取り主義をつかむのには、その内部の事情を知らねばならない。当然事前に潜入して調べておいてから、キャンペーンをはじめるべきなのに、戦いがはじまってしまってから、スパイに行けというのだから、チョット重荷だった。だが、面白そうである。

共産党だって、フリーの党員というのはないのだから、佼成会も、入会を紹介してくれる導き親がなければならない。ことに、読売側から潜入してくるだろうという声もあって、警戒厳重だというから、よほどウマイ状況をつけないと、入会できない。そこで、導き親を探しはじめた。

「誰か知っている人に、佼成会の信者はいないかネ」

部内はもちろん、社内の誰彼れと、まんべんなく声をかけたが、神信心を必要とするようなのは、新聞社にはいないとみえて、どうにも手がかりがないままに数日すぎた。

手がかりをつかむ

と、ある日、Tというサツ廻りの記者が、「どうもそれらしい心当りをみつけた」と知らせて

くれた。日蓮宗には違いないが、佼成会かどうか、確かめてみるというのだった。

最後の事件記者 p.414-415 生きる希望を失った男

最後の事件記者 p.414-415 中からヨレヨレの古ズボンをみつけ出した。膝はうすくなり、シリは抜けている。Yシャツはエリのきれたの、クツ下はカカトに穴のあいたのと、一通りの衣裳が揃った。
最後の事件記者 p.414-415 中からヨレヨレの古ズボンをみつけ出した。膝はうすくなり、シリは抜けている。Yシャツはエリのきれたの、クツ下はカカトに穴のあいたのと、一通りの衣裳が揃った。

「誰か知っている人に、佼成会の信者はいないかネ」
部内はもちろん、社内の誰彼れと、まんべんなく声をかけたが、神信心を必要とするようなのは、新聞社にはいないとみえて、どうにも手がかりがないままに数日すぎた。
手がかりをつかむ

と、ある日、Tというサツ廻りの記者が、「どうもそれらしい心当りをみつけた」と知らせて

くれた。日蓮宗には違いないが、佼成会かどうか、確かめてみるというのだった。

都内のあるターミナルの盛り場、その駅付近には例によって、マーケットの呑み屋が集っている。そのうちの一軒、五十幾つになる人の良さそうなオバさんが、佼成会の、あまり熱心でなさそうな信者だった。そんな信心ぶりだから、記者に狙われるような、〝業〟を背負っていたのだろう。でも、オバさん自身は、信者だということで、心の安らぎを得ているに違いない。

私は車をとばして家に帰った。ボ口類をつめた行李を引出すと、中からヨレヨレの古ズボンをみつけ出した。膝はうすくなり、シリは抜けている。Yシャツはエリのきれたの、上衣も古ぼけたの、クツ下はカカトに穴のあいたのと、一通りの衣裳が揃った。

サテ、そこで困ったのは、ボロオーバーがないのである。タンスの中を探すと、戦争中に叔母が編んでくれた、〝準純毛〟のセーターがでてきた。ダラリとして、重くて、とても今時は、人の前で着れた代物ではない。コレコレとよろこんで着こんだ。

メガネも、当今流行のフォックス型では困る。子供のオモチャ箱から、昔風の細いツルのフチをみつけた。クラブのベッドの下に突っこんであった底の割れたボロ靴もあった。

衣裳はこれですっかり揃った。台本は、すでに考えてある。霊験あらたかな立正佼成会の御教祖様「妙佼先生」の御慈悲にすがる、あわれな男である。

年齢は三十歳位、中学卒。戦後、中小企業の鉄会社に勤めていたサラリーマン。朝鮮動乱の好景気で遊びを覚え、妻との仲がうまくゆかなくなる。やがて、動乱が終り、会社は左前。サラリ

ーはおくれがちで、生活はつまってきた。妻とのいさかいが多くなり、会社はついに前年秋に倒産。失業する。愛想をつかした妻は、彼をすてて逃げてしまう。生きる希望を失った男。しかし、まだ失業保険が半年あるので、新橋のある保険会社で、外交の講習を受けており、ヤケにもなるが、何とか立直りたいとの努力も忘れさってはいない男だ。

銀座を呑み歩いていたころ、知り合ったのが新聞記者T。その記者をたずねて、何か職を世話してもらおうと考えた。記者はその男に一パイ呑ませて帰してしまおうと、オバさんの呑み屋に入ってくる。

(写真キャプション 宗教団体は外圧には強く、佼成会も大きく伸びた)

にせのルンペン

ライトが消えて、暗い舞台のドン帳のかげで、ドラが鳴りひびいて、幕が静かに上る。

最後の事件記者 p.416-417 あなたの全盛時代はいつも銀座

最後の事件記者 p.416-417 「それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ」
最後の事件記者 p.416-417 「それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ」

にせのルンペン
ライトが消えて、暗い舞台のドン帳のかげで、ドラが鳴りひびいて、幕が静かに上る。

オバさんは、ガラリと入ってきた客の顔をみてニッコリとする。サッソウとした青年記者のうしろから、油気のない頭髪の、貧乏たらしい男がついてきた。厳寒の候だというのに、オーバーもきていないのだ。二人が台の前に腰かけると、記者は酒を注文した。

「まア、Tさん。久し振り。アンタはいつもパリッとして、元気でいいわねえ」

「イヤア、ここしばらく忙しくてね」

オバさんと彼の挨拶がすむと、酒が出される。

「うまい。やはり一級酒は違うな。もう、もっぱらショウチュウで、しかも、このごろは御無沙汰ばかりだから……」

男はいやしく笑って、ナメるように酒をのむ。オバさんはフト、この奇妙な二人の取合せに疑問を感じたようだ。Tは素早く感じとって、

「しかし、鈴木さんあなたの全盛時代はいつも銀座だからね」

男は鈴木勝五郎といった。下品な仕草で酒を味わうようにピチャピチャと舌を鳴して、

「それはいいっこなしですよ。女房には逃げられるし、生きる希望も元気もなく、そうかといって死ねもせず、こうして昔のよしみで、あなたに就職を頼みにくる始末ですよ」

終りの方は、自分にいいきかせるように、やや感慨をこめていった。鈴木という名も、間違えないよう、同僚の名前を合せたものだ。私はオバさんの視線が、チラと自分に注がれたのを感じた。

「しかしね、Tさん。近頃の読売は一体何サ。佼成会のことをあんなにヒドク書いてさ。あたしァ、アンタにとっくりいって聞かせねば、と思ってたんだよ」

「ア、そうそう。オバさんは祈り屋だったッけね。だけど、佼成会だったのかい? それじゃくるんじゃなかった。読売と佼成会とじゃ、全然マズイじゃないか」

「イエ、いいんですよ。それはそれですから、いらしてもいいんだけどサ」

オバさんは、謗法罪といって、佼成会の悪口をいうとバチがあたる罪だとか、読売の記事についての、冗談まじりの口論をはじめる。鈴木は、はじめ興味なさそうに、やがて、だんだんと聞耳を立ててくる。

「もっともアンタは、♪今日も行く行くサツ廻り、ッてンだから、あの記事には関係ないんでしょ」

「そうさ。もっとエライ記者がやってるのだよ」

「じゃあ、本当は謗法罪で大変なところなんだけど、まあ勘弁してあげる。お悟りといって、バチが当るから、決してあんな記事は書いちゃダメですよ」

酒をのむ手も止めて、二人の話を聞き入っていた鈴木が、この時フイと口を開いた。

「しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?」

オバさんは確信にみちて言下に答えた。

最後の事件記者 p.418-419 計画的かつ継続的なウソの辛さ

最後の事件記者 p.418-419 こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。
最後の事件記者 p.418-419 こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。

「しかし、オバさん。その妙佼さまを拝むと、本当に救われるかい? オレのような奴でもかい?」
オバさんは確信にみちて言下に答えた。

「エエ救われますとも! 妙佼先生という尊い方がいらして、真心から拝めば、キット有難い御利益がありますよ。ただし、いい加減な気持じゃダメですよ」

「だけど、本当かなあ」

鈴木は呟くようにいって、グイと盃をあけた。そして、考えこむ。オバさんはあわれむように鈴木をみつめた。

「一体どうしたのさ、ワケを話してごらんよ。奥さんに逃げられたとかって、ウチにこうして呑みにきたのも、妙佼先生のお手配なんですよ。エ? ネエ、Tさん」

しかし、鈴木は耳に入らないかのように考えこむ。グイ、グイと盃をあけながら、「本当かなあ」「救われるかなあ」と、ひとり呟いている。ややあって、鈴木は思いきったように、顔をあげて、真剣にオバさんをみつめていった。

「オバさん。オレはやってみるよ。その有難い教えというのを、オレにも教えてくれよ。もう一度、一人前になりたいんだよ」

鈴木は声を落して、オバさんと連れの記者とに、彼の罪多い過去から、行き詰った現在までを語り出した。

遂に潜入に成功

こうして、鈴木勝五郎こと私の、佼成会へ入会のキッカケは作られた。成功したのであった。

オバさんはコロリだまされて、不幸な私のため涙まで浮べてくれたのである。

ウソも方便と、ホトケ様がいわれたそうだが、この佼成会の潜入で、計画的かつ継続的なウソの辛さ、苦しさをしみじみと味わわせられた。一時逃れの方便のためのウソとは違って、この人の良いオバさんの善意に対し、ウソをつきつづけるということは、今だに寝覚めの悪い感じだ。

オバさんを信じこませるため、途中でわざわざ便所に立った。オシリの破れをみせるためだ。すると、オバさんは「可哀想に」と呟いたという。効果的ではあったワケだ。

導いてくれる(入会紹介をしてくれる)と決れば、もう短兵急である。明朝の約束をして、それこそ明るい気持で店を出た。駅の近く、暗い横丁へ待たせてあった車にサッと飛びこんだ。

ところが、その衣裳のままで、社の旅館に入ったところが、顔見知りの政治部記者が、廊下の向うで私をみていた。その記者はあとで女中に向って、「どうしてアンナ汚いのを泊めるのだ」と怒ったという。女中たちと大笑いしたが、自信もついてきた。

翌朝早く、その呑み屋へ行って、オバさんを叩き起した。彼女は少女と一緒に、店の奥の一畳ほどのところに、センベイ布団でゴロ寝だ。モゾモゾと起き出してきて、新聞紙で粉炭を起す。洗面すると、佼成会発行の総戒名という、先祖代々の戒名に向い、タスキ、ジュズの正装で、お題目を二十回ばかり、朝のお勤めである。

それから朝食だが、これには驚いた。やっとおきた粉炭でお湯をわかし、丼に入れた洗わないウドン玉の上に、おソウザイ屋のテンプラをのせ、醤油をかける。それにお湯をそそいだ、即席

テンプラうどんだ。不潔な上にまずそうで、吐き気すら催しそうだ。

最後の事件記者 p.420-421 支部長を中心に〝法座〟を開いて

最後の事件記者 p.420-421 まず、ザンゲをしなければならない。肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私に、オカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました
最後の事件記者 p.420-421 まず、ザンゲをしなければならない。肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私に、オカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました

それから朝食だが、これには驚いた。やっとおきた粉炭でお湯をわかし、丼に入れた洗わないウドン玉の上に、おソウザイ屋のテンプラをのせ、醤油をかける。それにお湯をそそいだ、即席

テンプラうどんだ。不潔な上にまずそうで、吐き気すら催しそうだ。

だが、おばさんも外出姿になると、精一ばいのオシャレだから、電車に乗ると、私のみすぼらしさたるや、彼女が同行するのも恥ずかしかろうと思うほどだ。蓬髪、不精ヒゲ、オーバーなしの穴あきズボンに、ヒビ割れ靴というのだから……。

こちらも国電に乗ると緊張した。誰か知人に出会って、「よう」などと、肩を叩かれたら大変。「何だ、読売はやめたのか?」と、きかれること間違いなしの格好だからだ。伏眼がちに、四方を警戒しながら、やっとのことで新宿へ。そしてバスで本部へ。

行ってみると、オサイ銭をあげるオバさんの気前の良さに驚いた。冬のさ中にあんな朝食をとるオバさんが、実にカルイ気持で三百円もの大マイを、妙佼先生に捧げる。イヤ、ふんだくられているのだ。

バスを降りると、参拝者の列がつづく。それが、いずれも支部と自分の名を書いたノシ袋に、オサイ銭を入れて、本部拝殿前の三宝の上に差出す。名前が明らかにされるのだから、誰でも数枚の百円札はハズまざるを得ない。しかも、信者の勤労奉仕の道路整理係がいて、信者の群れを本部拝殿前へと追いこむのだ。そこを通らぬと、直接は修養道場へ行けないように、交通制限をしている。

そして、拝殿前でこのノシ袋を市価より高く売っているのは、教祖一族のものだから、二重、三重のサク取である。

金の成る礼拝道路を経て、修養道場へ入る。道場というと立派そうだが、要するにクラブである。大広間になっていて、支部ごとに別れて、支部長を中心に〝法座〟を開いている。輪(和)になって、妙佼先生の代理ともいうべき支部長さんの前で、ザンゲしたり教えを受けたりする場所だ。

しかし、実際は、例のノシ袋で支部ごとのオサイ銭上り集計表が作られて、支部長が「もっと熱心に信心しなければ」と、金のブッタクリを訓示する場所である。〝熱心に信心する〟ということは、〝毎日本部へ来る〟ことである。本部へ来れば、あの礼拝道路を必ず歩かせられるのだから。

支部長の御託宣

オバさんの支部長への報告の済むまで、隅ッこに坐っていた私は、やがて法座へ加えられた。そこで、まず、ザンゲをしなければならないのである。

肩を落し、低い声で、とぎれとぎれに語る私のセリフに、年配のオカミさんたちの、好奇の視線が集まる。……とうとう女房は逃げてしまったのです。私はすてられました……という件りにきたとき、支部サン(支部長)の声がかかった。

「アンタ、何て名前だっけね」

「ハイ、鈴木勝五郎です」

最後の事件記者 p.422-423 またオヨメさんがもらえるなら

最後の事件記者 p.422-423 男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。
最後の事件記者 p.422-423 男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。

「アンタ、何て名前だっけね」
「ハイ、鈴木勝五郎です」

支部サンは、掌に字を描いて、その名前の画数を数えていたが、吐き出すように、自信をこめて断言した。

「色情だよ! オ前さんには、名前の示す通り、色情のインネンがあるンだよ。だから奥さんに逃げられたんだ」

「ハ、ハイ」消え入りそうな声だ。

「だけどね。熱心に信心すれば、この教えは有難いもんでね。御利益があるよ。妙佼先生の有難いお手配でね、前の奥さんが知ったら口惜しがるような、いい奥さんがまた御手配になりますよッ」

高圧的にいいきる支部長の言葉は、確かに神のお告げのように、何かいいようのない新しい力を、私の体内に湧き起らせた。

また、新しいオヨメさんがもらえる! 現実には八年の古女房が、二人の子供とともにデンと居坐っている私にさえ、この言葉は不可思議な魅力を持っていた。ただし〝熱心に信心すれば〟イコオル〝うんとおサイ銭をあげれば〟である。

社へ帰って報告したら、景山部長はじめ社会部のデスクは爆笑につつまれた。

「これァ邪教じゃないよ。ズバリ、最初に色情のインネンがあると喝破したからな」

「妙佼サマのお手配で、またオヨメさんがもらえるなら、オレも信者になるよ」

と大変な騒ぎだった。

その後の法座で見聞したところによると、男の入会者はすべて、「色情のインネン」「親不孝」のどちらかである。聖人君子はさておき、男の子でこの二つに該当する過去をもたないものはあるまい、女に対しては、「シュウト、シュウトメを粗末にしたからだよ。思い当ることがあるだろ?」である。これもまたムベなるかなである。

三百円ほど支払って、タスキなどの一式を買わされ、翌日は導き親であるオバさん宅の総戒名、支部サン宅のオマンダラ(日蓮上人筆の経文のカケ軸)、本部と、三カ所へお礼詣りだ。

お礼詣りが、無事とどこおりなく済むと、翌々日は祀り込みだ。本部で頂いた鈴木家の総戒名を、支部の幹部が、私の自宅へ奉遷し参らせて、諸霊安らかに静まり給えかしと、お題目をあげる儀式である。

このことのあるのは、かねて調査で判っていたから、城西のある古アパートの一室を、知人の紹介で借りておいた。家主には事情を話し、チャブ台その他、最少限の世帯道具も借りておいたのであった。

幹部婦人の愛欲ザンゲ

その当日、幹部サンと導き親のオバさん、それにもう一人、佼成会青年部の妙齢の乙女と三人が、連れ立って本部からそのアパートへやってきた。

儀式が終ってから、幹部サンはやがて法話のひとくさりをはじめたのであった。その法話も、

いつかザンゲに変っていた。

最後の事件記者 p.424-425 幹部サンやオバさんではお断りだナ

最後の事件記者 p.424-425 その子は眼の下のホクロが色白の肌に鮮やかで魅力的だ。こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。
最後の事件記者 p.424-425 その子は眼の下のホクロが色白の肌に鮮やかで魅力的だ。こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。

幹部婦人の愛欲ザンゲ
その当日、幹部サンと導き親のオバさん、それにもう一人、佼成会青年部の妙齢の乙女と三人が、連れ立って本部からそのアパートへやってきた。
儀式が終ってから、幹部サンはやがて法話のひとくさりをはじめたのであった。その法話も、

いつかザンゲに変っていた。

「これでネ、私も色情のインネンがあってネ。一度では納まらなかったのですよ」

優しい調子でこんな風に話しはじめた幹部サンは、彼女の悲しい愛欲遍路の物語をはじめた。富裕な商家の一人娘に生れた彼女は、我儘で高慢に育った。年ごろになったころ、同郷の知人からあずかって、店員として働いていた青年に恋をされた。

しかし、気位が高くて、店員なんぞハナもひっかけなかった彼女の態度に、その青年は破鏡の胸を抱いて故郷へ帰っていった。

「あとでそのことを知ってネ。私の色情のインネン、そして、そのごうの深さに恐ろしくなりましたよ」

最初の夫との結婚話、それに失敗した第二の結婚、そして、いまの生活——それは、彼女の性欲史であった。彼女のその物語は、もう窓辺に宵闇をただよわせている部屋の薄暗さと相俟って私は何かナゾをかけられているのかナ、とも考えたりした。

他人に恋心をよせられるのも、再婚するのも、浮気するのも(とは彼女は口にこそしないが)、すべてこれ、色情のインネンのしからしむるところだという。そのごうから逃れるための修養だというが……。

「しかしネ。なかなか修業が足りなくて……、あなたも、熱心に修業しなくちゃあネ」

色情のインネン、妙佼先生のお手配、新しい奥さん、等々。私は正座してうつむき、抜けかけ

た膝をみつめ、ジュズをにぎってそんなことを考えていた。その視線の中に、隣にならんで坐っている、女子青年部員の、紺のスカートと、発育したモモとか入る。

美しい部類に入るその子は、眼の下のホクロが、色白の肌に鮮やかで魅力的だ。

——彼女に、色情のインネンはないのだろうか。この子が、妙佼先生のお手配で、オレのものになるのかナ。幹部サンやオバさんではお断りだナ。

こんな妄想にふけっていたのも、やはり、支部サンに喝破されたように、もって生れた色情のインネンらしい。帰社すると、夜は銀座の紳士、昼はウラぶれた失業者。こんな二重生活が一週間余りつづいて、潜入ルポができ上った。

今でも、新宿から中野あたりを通ると、私の二人の相手役女優——オバさんとホクロの乙女を想い出す。

教祖の身元アライ

この立正佼成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。佼成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば読売の判定勝ちというところであった。

最後の事件記者 p.426-427 マサの奴に〝生き仏さま〟なンて

最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。
最後の事件記者 p.426-427 当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいた。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。

教祖の身元アライ
この立正佼成会キャンペーンは、正直のところいって、邪教という結論も出せなければ、叩きつぶして解散させるということも出来なかった。佼成会側の読売不買運動も、地域的には成功したが、「読売を見ると眼がつぶれる」という宣伝も逆効果となって、信者の中に〝憎読者〟もでき、読売はかえって部数がふえるという結果だったから、いうなれば読売の判定勝ちというところであった。

この時に一番面白かったのは、生き仏様の妙佼教祖の、過去の色情のインネンを正確に取材して、バクロしたことであった。佼成会にとっても、教祖の過去が売春婦であったということは、信仰者としての適格性に影響してくるので、一番痛いことではなかっただろうか。

噂として、彼女がオ女郎サン上りだということは、あちこちでしばしば聞かされた。だが、確実なデータは誰も知らない。紙面で書くのは、少しエゲツないので、書かなくとも〝伝家の宝刀〟として正確な事実だけは調べておこう、というので、その取材を私が買って出た。

大正十年前後、約四十年も前の事実を、正確に調べようというのだから、困難な取材であることは覚悟したが、何かマリー・ベルの名画「舞踏会の手帖」を思わせる、たのしみがあった。

佼成会の機関誌によると、御先祖は石田三成を散々に悩ませた、北条側の大将成田下総守の家臣、長沼助太郎という武士で、成田家の滅亡により、自領の志多見村に落ちのび、土着して半農の大工になったという。

戸籍によれば、妙佼こと長沼マサ女は、明治二十二年十二月二十六日、埼玉県人長沼浅次郎の長女として、同県北埼玉郡志多見村に生れた。結婚は戸籍上二回である。

これだけの資料をもって、自動車一台とともに、埼玉、茨城両県下を、一週間にわたって走り廻った。古老たちを土地土地でたずね歩き、彼女が醜業に従事した証拠を探し出したのである。

困ったのは、彼女の同僚だったオ女郎サンを、その家庭にたずねた時である。すでに孫までいる人、しかも耳でも遠くなっていようものなら、怒鳴るような大声で、四十年前のことを、しか

も他聞をはばかる遊廓のことを聞くものだから、あるところでは、息子に怒られて追出されてしまった。

もちろん、当時の銘酒屋の建物をはじめ、談話者の写真をも撮っておいたのである。意外だったのは、マサさんを苦界から身請けした第一の夫、大熊房吉さんに、口止め策がとられていなかったことだ。或いは、口止めが行われていたのを、私が話させてしまったのかもしれない。大熊さんは、はじめはなかなか話そうとせず、「昔は昔だけど、今はあんなにエラクなったのだから、身分にさわる」といって、話すのをイヤがったほどだ。

それが、終いには、

「会からも、いい役につけるから、来いといわれたんですが、会に行けば、マサに頭を下げなければならない。誰が、マサの奴に〝生き仏さま〟なンて、頭が下げられますか。奴は昔はオレの女房だったし、女郎だったンだ。そりゃ、有難やと手をもめば、金になることは判っているンだけど、とても男にゃア出来ねえことだ」

と、気焔をあげる始末だった。

新興宗教の現世利益

マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

最後の事件記者 p.428-429 スクラップの一頁ごとが思い出にみちた仕事

最後の事件記者 p.428-429 私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から参考資料まで、細大もらさず記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。
最後の事件記者 p.428-429 私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から参考資料まで、細大もらさず記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

新興宗教の現世利益
マサさんの第一の婚姻の前には、小峰某という情夫がいて、その男のためかどうか、大正十年ごろ、彼女は茨城県境町のアイマイ屋、箱屋の酌婦となった。

境町というのは、利根川をはさんで、埼玉県関宿町に相対する宿場で、箱屋の酌婦というのはいわば宿場女郎だ。この箱屋も主人が死んで代変りとなり、その建物は伊勢屋という小間物玩具店になっている。箱屋の娘二人は、それぞれ老齢ながら生存しており、当時の酌婦二人も生きていた。

やがて彼女は、利根川を渡って、郷里の埼玉県南埼玉郡清久村に帰ってきた。といっても廃業したのではなく、同村北中曾根の銘酒屋斎藤楼に住みかえたのである。この店は同郡久喜町北中曾根三番地となって、草ぶきの飲み屋の部分だけ残っており、酌婦たちが春をひさいでいた寝室の部分は、取壊されてしまってすでにない。

この斎藤楼で、彼女は第一の夫大熊さんに出会った。大熊さんは、東京京橋の床屋に徒弟奉公中の職人。清久村の出だが江戸ッ子気質だ。彼は床つけの良いマサさんが気に入って身請けの決心を固めた。

借金を聞くと、金十円だという。大正十一年ごろの十円だから大金である。大熊さんは自分の貯金の五円だけでは足りないので、来年年季があけたら店を持つという名目で、アチコチ借金して、さらに五円を工面した。そして気前よくポンと十円を投げ出して、マサさんを身請けし、東京で同棲した。二人が正式に結婚したのは、年季があけてからの大正十二年十二月五日のことであった。

ところが、だんだん祈り屋的性格が出てきたので、二人の仲はうまくゆかず、性格の相違を理

由に、昭和四年二月九日、ついに協議離婚した。マサさんは霊友会へ進み、大熊さんは今でも清久村で床屋をしている。

どうやら、新興宗教の〝現世利益〟というのは、色情のインネン——性のよろこびにあるらしい。事実、「恋」は人に希望を与え、明るくさせ、よろこびを与える。打ちひしがれた人を、ふるい立たせる〝現世利益〟である。

新聞記者というピエロ

我が名は悪徳記者

ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。

スクラップの一頁ごとが、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」

に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといえないのだ。あくまで「自己反省」である。

最後の事件記者 p.430-431 「事件記者と犯罪の間」という手記

最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。
最後の事件記者 p.430-431 新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

新聞記者というピエロ
我が名は悪徳記者
ここまで、すでに三百二十枚もの原稿を書きつづりながら、私は自分の新聞記者の足跡をふり返ってみてきた。私は自分の書いた記事のスクラップを丹念につくり、関係した事件の他社の記事から、参考資料まで、細大もらさず、記録を作ってきたので、私の財産の一番大きなものは、この〝資料部〟である。
スクラップの一頁ごとが、どれもこれも書きたい思い出にみちた仕事ばかりである。それを読み返し、関連していろいろな思いにかられるうちに、心の中でハッキリしてきたことは、「新聞」

に対する、内部の人間、取材記者としての反省であった。私の立場からいえば、とてもおこがましくて、「新聞批判」などといえないのだ。あくまで「自己反省」である。

この本をまとめるにいたったのも、もとはといえば、文芸春秋に発表した、「事件記者と犯罪の間」という手記がキッカケである。その手記の冒頭の部分にふれたのだが、新聞を去ってみて、外部から新聞をはじめとするジャーナリズムを、みつめる機会を得たのであった。つまり、それは、こういうことだ。

新聞雑誌にとりあげられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。

私は確信をもってノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。

と、いうことであった。

そして、この一文に対して、実に多くの批判を受けたのである。私の自宅に寄せられたのもあれば、文芸春秋社や読売にも送られてきた。あるものは激励でありあるものは戒しめであった。この一文が九月上旬に発売された十月号だったので、まもなく十月一日からの新聞週間がやってきた。その中でも、私の事件への批判があった。

ことに、私の妻には、彼女なりの、私の事件や、新聞やに対する批判があった。彼女には、私が退職しなければならない、退職したということが、どうしても納得できないのであった。

私は構わない。私は、自分が今まで生きてきた世界だけに、その雰囲気はよく知っている。それを私はこう書いた。「冷たい男と知りながら、血道をあげて、すべてのものを捧げつくして捨てられた女、しかし、それでも女は、その非情な男を慕わざるを得ない——これが、新聞社と、新聞記者の間柄である。私は、自分の新聞記者としての取材活動が、失敗に終ったことを知った。〝出来なければボロクソ〟である。私は静かに辞表を書いた。逮捕され、起訴されれば、刑事被告人である。刑事被告人の社員は、社にとっては、たとえどんな大義名分があろうとも、好ましいことではない。私は去らなければならないのだ」と。

文春記事の反響

「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」

「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」

「アッ、そうか!」

つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に

挨拶をした。

最後の事件記者 p.432-433 去るのが当然であると思う

最後の事件記者 p.432-433 警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と
最後の事件記者 p.432-433 警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と

文春記事の反響
「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」
「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」
「アッ、そうか!」
つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に

挨拶をした。

「これからは、お友達として付合いましょう」

その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。

「これ、どういう意味?」

彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。

だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。

私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。

ことに、警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私は、それでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。「記者としての私」を、理解して頂けたからである。この時の気持が、満足であり、爽快であり、去る

のが当然だ、という気持なのだ。

保釈出所して、社の人のもとへ挨拶に行った。その人は、私から、記者としての〝汚職〟が出てこなかったことを、よろこんで下さった。もし、〝汚職〟が出たらその人も困るのであろう。だが、その人はいった。

「ウン、局長や副社長には、手紙で挨拶しておけばいいだろう」——もはや、会う必要はないということだった。

ある先輩は忠告してくれた。

「書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ」——何人もからこの有難い言葉を頂いた。だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。

文春を読んだ先輩がいった。

「惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ」

「しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか」

友人がいった。