投稿者「mitaarchives」のアーカイブ

最後の事件記者 p.434-435 私は一人で護国青年隊事件を

最後の事件記者 p.434-435 「三光」という支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。
最後の事件記者 p.434-435 「三光」という支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

ある先輩は忠告してくれた。
「書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ」——何人もからこの有難い言葉を頂いた。だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。
文春を読んだ先輩がいった。
「惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ」
「しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか」
友人がいった。

「オイ、新聞を敵にするなよ。新聞というのは、お前なんか一ヒネリにしてしまうほど強大なんだ。何を書いても勝手だけど、決して、新聞を敵にまわすなよ」

私は無罪をかち取りたかった。私の「犯人隠避」の構成要件の第一である「拳銃不法所持犯人という認識」がなかったからだ。私は、東大名誉教授、法務省特別顧問で、刑法学の権威である小野清一郎博士に弁護人をお願いにいった。先生は第一番にいわれた。

「文春を読みましたよ。あの、記者としての反省、あれがなければダメですよ。よく気がつかれましたね」この言葉は、先生の新聞観なのではなかろうか。

そのほか、数多くの反響がある。だが、まず一つの事件を語ろう。

護国青年隊の恐喝

昨三十二年春、私は一人で、護国青年隊事件というのをやった。この右翼くずれの暴力団が、進歩的出版社として有名な、「光文社」のK編集局長をおどかしたということを、私はある右翼人から聞いた。

同社が出版した、「三光」という、支那派遣軍の暴虐ぶりをバクロした本のことで、この暴力団はK氏をおどかし、絶版を約束させたばかりか、金をおどし取ったという話を聞いたのである。

私はこの話を聞くと、即座に二つの面からするニュース・バリューを感じた。一つは右翼くずれの暴力団が、いよいよ金に困って、出版言論に干渉しはじめた。これは言論の自由にとって、

重大な問題だということだ。

(写真キャプション カッパブックスの『三光』は残虐写真で売った)

第二は、その進歩的出版物で売り出した、光文社のベストセラー・メーカーのK氏が、暴力に屈して絶版を約束し、現にその広告の撤回をはじめた、という点である。その辺の売れるならエロでもグロでもといった、商売人根性丸だしの出版屋と違って、「三光」の出版意図を読んでも信念のあるはずの編集者だからである。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。

光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机

にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。

最後の事件記者 p.436-437 石井隊長に光文社恐喝の一件を

最後の事件記者 p.436-437 今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンパー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。
最後の事件記者 p.436-437 今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンパー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。

すぐ調査をはじめた。これが右翼人というニュース・ソースをもっていた私の強味である。K氏は否定するが、広告代理店を調べてみると契約した有効期間内に広告を撤去したことは事実だった。
光文社の編集室と同室の、他の編集の人たちに当ってみると、おどかしの光景は手に取るように判った。彼らが、K氏の机を叩いてドナリつけ、光文社の編集記者一同は、息を殺して机

にうつぶし、横眼で様子をうかがい、K氏はふるえていた、とその人はいう。

しかも、相手は電話の受話器を突きつけて、「一一〇番に訴えたらどうだ」ともいったが、何もできなかったという。

東販、日販などの大取次を当って、売れゆきの部数を調べ、さらに恐喝された金額までもと狙ったが、こればかりは判らない。取次店では、「註文がくるのに、光文社は増刷しないから絶版らしい」というし、K氏は、「予定の部数がでたし、刊行の目的を達したから、返本がコワくて刷るのを止めた」と、弁解する。

今度は護国青年隊の番だ。飯田橋のその本部には、革ジャンパー、革半長靴の制服姿もいかめしい歩哨が、その入口に立っている。決して気持の良いところではない。石井隊長に会い、財政部次長という青年にもあって、光文社恐喝の一件をききだした。彼らは右翼としての信念から、「三光」のような本を出すべきでない、と抗議した事実を認めた。そして、K氏は絶版にし、広告を撤回すると約束したという。

「いくら出しました?」

私はサッと単刀直入に切りこんだ。二人はニヤリと笑って、顔を見合せた。

「金をとったらカツ(恐喝)になるサ」

ニヤリとして否定する。

こうして、私の特ダネは取材を終り、原稿にされた。ところが、どうしてか紙面にのらない。

いろいろとウルサイ問題の起きそうな記事だから、その責任をとりたくないのか、デスク連中は敬遠してのせようとしない。そんな時に、カンカンガクガク、デスクと論争しても、掲載を迫るような硬骨の記者も、何人かいるが、私は軽べつすると論争などしないたちだ。

新聞記者というピエロ

そうこうして、一週間ほどたつうちに、朝日が書いてしまった。私の狙った観点のうち、言論の自由の侵害の面だけ、記事として取上げたのだ。読売の場合でもそうだったが、光文社という大口の広告スポンサーとして、営業面からの働きかけがあったのかもしれない。

私としては、K氏のような一流の出版文化人が、暴力に屈した点も書くべきだと思った。この恐いという気持は、警察の保護に対する不信へもつながるのだが、会社の金で済むことなのに、怪我でもしたらバカバカしい、という、インテリ特有の現実的妥協とともに、やはり取上げるべき問題であったと思う。

朝日が特ダネとして書いた日、私は出社すると、デスクの机のところにいって、オクラ(あずかり)になっていた私の原稿をとり出し、デスクの面前でビリビリと破いてすててしまった。

それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だ

から、もう一度、やってくれというのだった。

最後の事件記者 p.438-439 ジャーナリズムとはあわれな世界

最後の事件記者 p.438-439 「君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ」
最後の事件記者 p.438-439 「君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ」

朝日が特ダネとして書いた日、私は出社すると、デスクの机のところにいって、オクラ(あずかり)になっていた私の原稿をとり出し、デスクの面前でビリビリと破いてすててしまった。
それから一週間ほどすると、私はデスクに呼ばれた。護国青年隊が、光文社ばかりか、「日本敗れたり」「孤独の人」「明治天皇」などの映画会社や、他の出版社もおどかしているという話を原編集総務が聞いてきて、この〝姿なき暴力〟を社会部で取上げろ、と命令してきたという。だ

から、もう一度、やってくれというのだった。

「じゃ何故あの原稿を使わなかったのです。朝日より一週間早く提稿しているじゃないですか。それを、朝日の特ダネの後追いをしろというのですか」

私は反撥した。モメる原稿を扱ったデスクは、それがモメた時には責任者になるから、こんな形で、上から命令されれば、欣然としてやるのだ。こんな実情では、意欲的な紙面なんぞ出来やしない。四十歳すぎて、女房子供を抱えたデスクが、身分保証もなければ、どうして火中の栗を拾うであろうか、それも当然のことである。

「君以外の記者じゃ、護国青年隊なんていったら、恐がってやりやしないよ。腹も立つだろうけど、こんな危険な仕事は、君でなきゃできないよ。まげてやってくれよ」

確かにピエロである。文春十一月号の読者の声欄にあるように、「むきになって、筆者が自分の記者ぶりを述べれば述べるほど、ジャーナリズムで踊ったピエロの姿がにじみ出て、ジャーナリズムとは、あわれな世界だなアと、思わず叫びたくなる」のも、当然な話である。

危険な仕事は、君にしかできないのだ、とオダテられて、その気になって、女房子供のことも忘れてしまう〝新聞記者〟というピエロを、では一体、誰がっくったのだろう。誰がそうさせたのだろう。

それはジャーナリズムという、マンモスに違いない。二十二、三歳の若造二、三人にかこまれて、机を叩かれただけで、意欲的らしさを装った出版物は、直ちに絶版になるという現実が、ジ

ャーナリズムであろう。

ピエロの妻

 私はその仕事を引受けた。どうしてもやらなければ怠業である。従業員就業規則違反である。今、一枚何千円もの原稿料をとる菊村到氏も、活字になりもしないと予想される原稿の、書き直しを命ぜられて、それが拒否できないバカらしさに、社を辞めたのであろう。

それから数回にわたって、この暴力団をタタいたのだが、彼らは怒って社の読者相談部という苦情処理機関へ押しかけてきた。「三田の奴メ、同志のようなカオをしやがって、裏切りやがったな。どうするかみていろ!」という、彼らの言葉が、私に伝ってきた。

そうこうするうちに、岸首相までが、自民党の幹事長時代に、百万円をタカられたということが判明した。事件は国会でも取上げられたので、警視庁捜査二課でも放っておけずに、後藤主任を担当として捜査を始めた。

私はこの主任に協力して、何とかして金星をあげさせようと努力した。だが、どこの出版社もどこの映画会社も、被害にあっていながら、被害を認めようとしない。被害届がなければ事件として立たない。商売人である出版社や映画会社が、金で済ませるのはまだ良いが、暴力追放をスローガンにした、岸首相の秘書官、現金を飯田橋の本部にとどけた本人までが、どうしても被害を認めない。

最後の事件記者 p.440-441 岸首相が百万円をタカられた

最後の事件記者 p.440-441 しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。
最後の事件記者 p.440-441 しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。

そうこうするうちに、岸首相までが、自民党の幹事長時代に、百万円をタカられたということが判明した。事件は国会でも取上げられたので、警視庁捜査二課でも放っておけずに、後藤主任を担当として捜査を始めた。

私はこの主任に協力して、何とかして金星をあげさせようと努力した。だが、どこの出版社もどこの映画会社も、被害にあっていながら、被害を認めようとしない。被害届がなければ事件として立たない。商売人である出版社や映画会社が、金で済ませるのはまだ良いが、暴力追放をスローガンにした、岸首相の秘書官、現金を飯田橋の本部にとどけた本人までが、どうしても被害を認めない。

私は主任と同行して、甲府の奥に住む元同隊幹部を探し出して、当時の被害状況の参考人調書まで作らせた。その男を口説き落すのに、どんなに苦労をしたことか。金を渡した中村秘書を落城させるため、関係事実を調査しては主任に提供するなど、刑事以上の苦労であった。しかし、どんな証拠がでても、中村秘書(当時外相秘書官)は、被害を認めようとしない。「選挙が終るまで待ってくれ」「岸が外遊から帰ってきたら……」と。

「あんたのおかげで、次々と証拠をつきつけて、中村秘書を理責めにしたのさ。しまいには、彼も額に脂汗をかいて、もう少しで被害を認めてくれるところまでいったよ。だけど、逮捕した容疑者ではなく、協力してくれる被害者という立場だろ、むずかしいよ。認めようとしないものを認めさせようというんだからナ。オレは捜査二課の一主任だ、あんたは外相秘書官だから、上の方へ手を廻して、一警部補のクビを切るぐらいは簡単だろうけれどと、熱と誠意で押したのサ。もう少しのところだったのに、惜しいことしたよ。あんなに協力してくれたのに、カンベンしてくれよ。本当にありがとう」

主任はこういって、私に感謝した。彼の声にならない声は、警視庁の幹部の方に、岸首相の事件はやめろと、政治的圧力がかかったのだとも、受取れるような感じだった。

この事件での、私の捜査協力はついにモノにならなかったが、何回かの記事で、私はともかくとして、妻はどんなにか恐い思いをしたようだった。「家の付近に、怪しい奴がウロついているから、今夜は帰ってこないほうがいいわ。奈良旅館へ泊って……」という電話がきて、私は一週間

も旅館住いをした。

「暴力団が子供を誘拐したらどうしようかしら」

そういって、学校へ通う長男にかんで含めるように教えた。長男もオビエた顔で、母の注意を聞いていた。

「パパの留守に、家へやってきたらどうしよう。私はともかくとして、この子に手を出したりしたら……」

幼い次男を抱きしめて、彼女は真剣に考えた。そしていった。

「浅草あたりでは、一万五、六千円でピストルが買えるというじゃないの。社で前借して買ってきて下さいよ。家へ押し入ってきたら、撃ってやるんだ」

そして、しばらくしてまたいった。

「……ね、パパ、お願いだから死なないでよ。……もう、危険なお仕事はやめて!」

これが、〝ピエロ〟の妻である。ああ! 母は強く、女は弱い!

それなのに、ピエロは、踊るのをやめない。バリバリッと、音を立てて、ひろげる。サッと眼を射る大きな横見出し。「自称右翼〝護国青年隊〟の内幕」、肩に太い二本見出し「恐かつ専門の暴力団、分け前は前科で決る」何ともいえない芳香を放つインク、何十万、何百万枚と刷ってゆく輪転機のごう音。

——この感覚のエクスタシーが、新聞というマンモスなのか。

最後の事件記者 p.442-443 あの検事の名前を明らかにして

最後の事件記者 p.442-443 立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。
最後の事件記者 p.442-443 立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

ピエロはとばされる

新聞記者の功名心という、誰にも説明できないピエロの衣裳は、麻薬のように本人だけのエクスタシーなのである。

何も光文社ばかりではない。新聞の世界にも、ガラ空きの客席を前に、一人踊り呆けるピエロの自覚が訪れてきている。去年の秋の売春汚職にからむ立松事件がその最初のステップである。

立松記者は、デタラメやウソを書いたのではない。福田篤泰、宇都宮徳馬両代議士が、売春汚職にからんでいると、しかも、五人の代議士のうち、この二人だけは名前を出しても絶対大丈夫だ、と、ハッキリ聞いたのである。彼は私たちの前で、相手に電話した。立松もピエロだから、何もそんな芝居は必要としない男である。

相手は、検事の肩書を持つ課長である。立松はそれを信じて原稿を書いた。その結果が現役記者の逮捕である。

立松記者の上司もまた、その課長に会って確かめたはずである。社会部のピエロたちは、たとえ立松記者を有罪としようとも懲役に送ろうとも、ニュース・ソースは明かすまいと決心した。本人もそのつもりであったに違いない。社会部のピエロたちの意見は、それが、本当の新聞としての責任と正義とを貫ぬく道だと信じた。

記事は取消すまい、そのため懲役へ行くのも止むを得ない——ヤクザの仁義と似ているッて?

そうだとも、ピエロだもの。

何しろネタモトは、検事という、日本の最高級のランクにある人種で、しかも役所。なんと中央官庁の課長で、過去には立派な仕事ばかりしてきた人である。ナントカ疑獄とかカントカ疑獄とか、この人のいうことを信じない記者がいたら、おめにかかりたいものである。

司法記者クラブのキャップとして、その反対側の立場の検事のいう言葉を信用して、立松を出頭させてしまい、ヒッカケ逮捕という最悪の事態を招いてしまった私も、大いに責任を感じていた。もとより、私もネタモトを信じたから、記事を取消すべきではないという意見だった。

だから私は、上司にも相談せず、独断でマルスミ・メモといわれる、済の字を丸でかこった印のついた代議士の名簿を、知合いの代議士たちに見せたのである。かつて国会を担当していたから、知合いは沢山いた。するとそれは委員会へ持出されてしまった。

その結果出てきたものは、最初の掲載記事と同じ場所へ、同じ体裁で、同じ長さの記事を出して、前の記事を訂正するという、前代未聞の出来事であった。私が書いた記事に対しても、同じような要求をうけたことは、一再ならずあった。だが、それらはすべて、一笑のもとにケトばされた。

私は絶対不服であった。それならば、あの検事の名前を明らかにして、その間違った経過を、読者の前に公表すべきである。相手をぶん殴って、すぐ済みませんとだけ謝れば、それで済むはずのものでない。このように間違えたのですから、御立腹でしょうが、お許し下さいと、謝るの

が常識であり、礼儀であり、読者への責任である。

最後の事件記者 p.444-445 サラリーマンだけを雇用することに

最後の事件記者 p.444-445 私は、早晩トバされるべき運命なりと、覚悟していた。横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。
最後の事件記者 p.444-445 私は、早晩トバされるべき運命なりと、覚悟していた。横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

その結果出てきたものは、最初の掲載記事と同じ場所へ、同じ体裁で、同じ長さの記事を出して、前の記事を訂正するという、前代未聞の出来事であった。私が書いた記事に対しても、同じような要求をうけたことは、一再ならずあった。だが、それらはすべて、一笑のもとにケトばされた。
私は絶対不服であった。それならば、あの検事の名前を明らかにして、その間違った経過を、読者の前に公表すべきである。相手をぶん殴って、すぐ済みませんとだけ謝れば、それで済むはずのものでない。このように間違えたのですから、御立腹でしょうが、お許し下さいと、謝るの

が常識であり、礼儀であり、読者への責任である。

この態度に、率直で良い、大新聞の襟度である、これからもそうすべきだ、と、オベンチャラをいう評論家や、他の新聞があった。そんなバカなことがあるものか。

一等部長である社会部長は、三等部長のつまらないポストへトバされてしまった。立松記者は「懲戒休職一週間」という、処分をうけた。私は、その時にはお構いなしであったが、早晩トバされるべき運命なりと、覚悟していた。私が立松記者なら、あの時に退社しただろうが、いずれにせよ、横井事件などがなくとも、辞めるべき客観状勢であったのである。

なぜかといえば、この事件の取消し方の、スジが通ってないのでも判る通り、社会部のピエロは、すべて整理されることになった。あんまりフザけた、道化芝居はやめて、商売らしい商売をするために、サラリーマンだけを雇用することになったようであった。

はじめて知る人の情

「最高裁の局長連中との会で、君の噂が出てね。みんな局長たちの意見は、起訴からして無理だから無罪だ、といってたよ。悪いニュースじゃないから知らせるよ」

ある記者が電話でそういってきた。

「メシが食えるかい? 大丈夫かね、相談に乗るよ」「ある会社のエライ人が、手記を書いたのだけど、文章がダメなんだ。印刷できるよう、まとめる仕事をやらないか」「ナニ、新聞ばかり

が社会じゃないよ」

人間、落ち目になって、はじめて人の情を知るというが、私は今度もそう感じた。本人はあまり落ち目とも思わないが、客観的には落ち目であることは確かだ。

電話の一本、ハガキの一枚に、私はどんなに慰められ、元気づけられたことか。そして、広い世間には、いろいろの考え方のあることを知った。

「あの文章を読んでその通りだと思うものは、新聞記者に一生を打ちこんだものだけしか解らぬでしょう。特に官僚の権力エゴイズムと、最近の××の月経の上った宮廷婦の集合の如き動脈硬化ぶりに対する、言外の痛恨の情など……」

「この馬鹿みたようなという実感は、警察と検事とを除いた、すべての日本人、否地球上のすべての人の吐息ではありますまいか。大体、権力を握った人間はヒューマンという意味では人間ではないでしょう。普通の場合でも検事たちの手にかかると、刑法的インネンを吹かけられて、惨めな人生になることが一般的でしょう」

私が、司法記者クラブにいた一年間の大事件は、売春、立松、千葉銀の三つであったが、それらの事件を通して感じられるのは、この二つの手紙と共通するものであった。一人は新聞記者の老先輩であり、一人は老実業人であった。新聞記者、それも読売の未知の地方支局員からももらった。

「読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売に

はいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……」

最後の事件記者 p.446-447 強い敵と闘うことは相当な勇気がいる

最後の事件記者 p.446-447 安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷を安藤のツケで飲み歩くようになった。といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。
最後の事件記者 p.446-447 安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷を安藤のツケで飲み歩くようになった。といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

「読んでみると、全く社の悪口はなく、取材意欲と愛社心にもえるものだった。読者には読売に

はいい記者がいたものだと感心させ、社の幹部も反省することがあるだろう。私たちも第一線地方記者として、読売に誇りを感じた。折あれば早くまた帰社して頂き……」

「仕事をしすぎて病気になったのも、大兄同様悔んではいません。離れて思えば新聞なんてつまらない仕事だけど、そう思っても、やり抜かずにはいられないのは、お互に情ない性分でしょうか」

「読売新聞は貴殿の如き人材を多々踏み台として、今日の隆盛を築きあげてきたのだと想像されます」

官僚の権力エゴイズムについての反響が、一番多かったようである。ある紳士は私を一夕招待してくれて、警職法反対の運動を起そうではないか、とまでいわれた。

「ゲゼルシャフトとゲマインシャフトですよ。第一、菅生事件をみてごらんなさい。犯人の戸高巡査部長をかくまったのは、警察の幹部じゃないですか。これは、どうして犯人隠避にならないのです? そして、公判では検事が戸高をかばってますよ。警職法などが通ったら、世はヤミです。現状でさえこれですからね」

もう記者をやめてしまった、司法記者クラブの古い記者に街で会った。

「誰だい? 警視庁のキャップは? 君を逮捕させるなんて、あんなのは新聞記者で当然のことじゃないか」

この記者の時代には、新聞と警察はグルになって、おたがいにウマイ汁を吸っていたのだから

その意味での不当をなじっていた。

最後の事件記者

だが、私が一番ガマンならなかったのは、逮捕された奴は悪党だから、何を書いてもいいんだという、ジャーナリズム全般にみられる傾向である。それが、しかも全くのデタラメである。

ある旬刊雑誌が、私と安藤親分とが、法政大学での先輩、後輩の仲だと書いている。「新聞記者とギャングの親分という関係ではないんだ、学校の先輩、後輩なんだ」と、三田は自分の良心へいいきかせた。そうして、安藤と一緒にキャバレーに行き、それから三田は、銀座、渋谷のキャバレー、バーを、安藤のツケで飲み歩くようになった。そして、小笠原を逃がすように頼まれる——といった、〝悪と心中した新聞記者〟のオ粗末の一席を平気で書いているのである。

私は弁護士と相談して、私の名誉回復のため、訴訟を起す覚悟をした。まず、筆者を明らかにするよう要求したのだが、笑いとばされて、誠意がみられないからである。私が勝訴になったらその雑誌のバックナムバーをみて、デマを書かれて迷惑している人たち全部を集めて、徹底的に闘いたいと考えた。強い敵と闘うことは、相当な勇気がいることである。護国青年隊よりは、本質的に勇気が必要である。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。

最後の事件記者 p.448-449 現実にはもはや事件記者はいない

最後の事件記者 p.448-449 新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。
最後の事件記者 p.448-449 新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。

最近のジャーナリズムをみていると、面白い傾向が出てきている。それは第二報主義であった週刊誌が、新聞を出しぬいて、特ダネをスクープしていることだ。

報道協定のことは抜きにして、週刊明星と週刊実話とか、皇太子妃のニュースを書いてしまった。それから、週刊朝日が、戦闘機問題のカゲの人、天川勇なる人物を詳細にレポートした。この絶好の社会部ダネは、大新聞には、何故かのらなかった。

十月二十八日の朝日社会面は、決算委の記事として、このナゾの人物の名前を出したけれども三十日発売の週刊朝日が書いているのだから、週刊の方が早かったことになる。

ことに面白いのは、週刊誌の皇太子妃の記事の筆者が、新聞記者だといわれていることだ。新聞記者が、自分の新聞にかかないで、雑誌に原稿を書くという傾向が、ハッキリと強まってきているのではなかろうか。

新聞には、書いてものらないのか、書かせてくれないのか。面白い事件はさけるのか。安全第一の雑報記事だけにして、危険をさけるのであろうか。新聞記者が、自分にサラリーをくれている新聞に書けず、雑誌に書くということは、実は深刻な問題ではないのだろうか。

新聞週間のとき、講師になった読売原出版局長は、こういっている。

「週刊誌ブームというものも、ラジオが思わぬ発達をとげたために起ったものだが、新聞がしっかりしていれば、週刊誌など作る必要はなかったはずだ。新聞が増ページして、週刊誌などつぶしてしまわねばならないと思う」(新聞協会報一三五六号)

この言葉は、裏返せば、新聞がしっかりしていない、ということだ。人気番組「事件記者」はつづいているが、現実には、もはや、事件記者はいない、といわれる。誰だって、危険を冒すの

はいやである。自分で額に汗して生活費をつくりだすよりは、記者クラブで碁、将棋、マージャンをたのしみながら、黙ってサラリーをもらう方が、ずっと楽だからである。私は、〝最後の事件記者〟であったようだ。このあとにつづく、バカなピエロはもういないだろう。

最後の事件記者 p.450-451 同じ遊軍に辻本芳雄氏がいた

最後の事件記者 p.450-451 カストリ雑誌全盛のころ、私が「夫婦雑誌」というのに内職原稿を書いているのを知った辻本さんは「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者は、後世に残るものを書くんだ」と
最後の事件記者 p.450-451 カストリ雑誌全盛のころ、私が「夫婦雑誌」というのに内職原稿を書いているのを知った辻本さんは「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者は、後世に残るものを書くんだ」と

あとがき

いま、こうして、私の新聞記者としての、ひとつの区切りに立って、いったい、現在の私の人格形成に、どんな人たちが影響を与えて下さったか、について、考えてみた。

記者としては、三人の先輩が挙げられる。昭和二十二年秋、シベリアから復員して、帰り新参の私が、社会部遊軍に戻った時、同じ遊軍に辻本芳雄氏がいた。

カストリ雑誌全盛のころで、私が、「夫婦雑誌」というのに、内職原稿を書いているのを知った辻本さんは、「オイ。ヘンなものは書くなよ。筆が荒れるゾ。新聞記者というのは、後世に残るものを書くんだ。単行本としてまとめられる、〝専門分野〟を持つのだ。物書きなんだから、著書の二冊や三冊は出版できなきゃ……」と、忠告して下さった。

当時の社会部長で、報知新聞社長時代に逝去された竹内四郎氏。昭和二十三年に、「日銀現送箱」事件というのをスクープした。日銀の新潟支店から、古紙幣回収のための現送箱に、米を詰めて本店に送った事件だ。私だけが事件を知って、取材している時に、日銀の輸送課長という人物に〝誘惑〟された。そのことを、冗談まじりに報告した時だった。

最後の事件記者 p.452-453 不良外人のバッコを叩いた「東京租界」

最後の事件記者 p.452-453 「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、告訴に負けないだけの事実をつかめ」
最後の事件記者 p.452-453 「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、告訴に負けないだけの事実をつかめ」

当時の社会部長で、報知新聞社長時代に逝去された竹内四郎氏。昭和二十三年に、「日銀現送箱」事件というのをスクープした。日銀の新潟支店から、古紙幣回収のための現送箱に、米を詰めて本店に送った事件だ。私だけが事件を知って、取材している時に、日銀の輸送課長という人物に〝誘惑〟された。そのことを、冗談まじりに報告した時だった。

「いいか。新聞記者というのは、書くんだ。酒を呑まされ金を握らされても、書けばいいんだ。だが、金は受け取るナ。ハンパ銭だと、相手は、余計にしゃべり易い。それが、広まって記者生命を傷つける。もし、金を取るなら、記者をやめても悔いないだけの大金をフンだくれ。記者である限り、金を取ってはいけない。そして、知った事実は、どんなことがあっても書くんだ!」

もうひとり、竹内氏の次の社会部長の原四郎氏だ。昭和二十七年秋、独立後の日本での、不良外人のバッコぶりを叩いた、「東京租界」取材の時だった。この、わずか十回の連載ものが、原部長の企画、辻本次長のデスク、私と、牧野拓司記者(のちの社会部長。米留学帰りで、主として通訳を担当)が取材、というスタッフだった。読売社会部は、この「東京租界」で、第一回菊池寛賞(新聞部門)受賞の栄誉を担ったものだ。

「毛唐相手の記事だ。奴らはすぐ裁判に持ちこむだろう。名誉棄損の告訴状が、何十本と出ようとも、ケツは部長のオレが拭く。お前たち取材記者は、的確に事実だけを固めろ。告訴に負けないだけの事実をつかめ。原稿は事実だけだ、と、オレは信じてるゾ」

そしてもうひとり。記者としてよりは、曲がりなりにも、社長であってみれば、人を使う立場である私に、〈人の使い方〉を教えて下さったのが、読売の務台社長だ。

安藤組事件に連座して、警視庁は私を逮捕して調べる意向を明らかにした。私は、一日の猶予を申し入れ、明日正午に出頭することを約した。その日の午前中、持ちまわり役員会で、私の辞表は受理された。前日、電話で事件を報告した時、「キミ、金は受け取っていないンだろうナ!」

と、第一声を発した編集局長は、席に見えなかった。

重役に挨拶まわりして、務台総務局長のところに伺った。開口一番、「ウン、事件のことは聞いたよ。ナニ、新聞記者としての向こう疵だよ。早く全部済ませて、また、社に戻ってこいよ」……温情があふれていた。私の〝常識〟でも、復社できるとは思えないのだが、直接の上司の編集局長(故人)とは、人間的に格段の差があった。

そして、この時の言葉が、その場限りの、口から出まかせではないことが数年後に判明する。バッタリ出会った深見広告局長が、「三田、どうしているンだ? この間、築地の宴席が終わって、務台副社長と同じ車に乗ったら、フト、『三田は、消息を聞かないがどうしている?」と、いわれたゾ…」と、いつまでも、気にかけておられることを教えて下さった。私は感激した。爾来、私は〝務台教の信者〟社外第一号を自任している。

私の、「社会正義への目覚め」の素地は、府立五中時代の、五年間の恩師である吉木利光先生だ。(正論新聞第二六七号=50・4・30付=「教育とはなにか」所載)

そして、新聞記者という仕事への、直接の示唆は、日大芸術科時代の三浦逸雄教授であった。そしてまた、私の「新聞記者開眼」を裏打ちして下さったのは、母の従兄でもある小野清一郎先生であった。先生は、私の事件の弁護人を引き受けて下さったが、その時にこういわれた。

「文芸春秋の記事を読みましたよ。あのなかに、『オレも果たしてあのような記事を書いたのだろうか」という、反省のクダリがありましたネ。あの一行で、あの文章が全部、生きているので

す」——このように、私は、良き師、良き先輩、そして、ここに名を挙げるいとまもない多くの友だちたちに、恵まれて、今日があるのだ、と思う。

最後の事件記者 p.454-455 岩手銀行は倒産し母は預金を失った

最後の事件記者 p.454-455 「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。
最後の事件記者 p.454-455 「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。

そして、新聞記者という仕事への、直接の示唆は、日大芸術科時代の三浦逸雄教授であった。そしてまた、私の「新聞記者開眼」を裏打ちして下さったのは、母の従兄でもある小野清一郎先生であった。先生は、私の事件の弁護人を引き受けて下さったが、その時にこういわれた。
「文芸春秋の記事を読みましたよ。あのなかに、『オレも果たしてあのような記事を書いたのだろうか」という、反省のクダリがありましたネ。あの一行で、あの文章が全部、生きているので

す」——このように、私は、良き師、良き先輩、そして、ここに名を挙げるいとまもない多くの友だちたちに、恵まれて、今日があるのだ、と思う。

また、「職業的倫理」については、少年の日の、母の一言であったろう。この母は、八十七歳、米寿を控えてなお、末子の私のことを案じて、死ぬにも死ねない心境らしい。裏返せば、私は〝孝行息子〟ということか…。

医者だった夫に早逝された母は、三十三歳の若さで、六人の子を抱えて未亡人になった。夫の長兄のすすめで、遺産の大半を、故郷の岩手銀行に預金した。やがて、昭和八年の金融パニックで、岩手銀行は倒産し、母は預金を失った。その時から、母の苦闘の歴史が始まる。

母の妹は、岩銀の頭取に嫁していた。銀行は倒産して、預金者は被害を受けたが、頭取家は、事前に財産の名義を変えていて、被害は僅少だった。しかし、母は表立っては、そのことをいわなかった。

私が、中学生になって、自分の家の歴史に興味を覚えたころ、母は、私にだけソッといった。「会社がツブれたら、社長一家は路頭に迷っても、社員を飢えさせてはいけないものだよ。そこが、人の上に立つ者の辛さなんだよ」と——。

×       ×      ×

新聞の週二回刊という多忙のなかで、「正論新聞社出版局」の発足を決め、その処女出版にこの本をえらんだ。しかし、法人の設立もまだ全然だし、販売のルートもできてはいない。

その時、日本民主同志会の仲間である、恒友出版の斎藤繁人社長から、援助の手がさしのべられて、「発売元」という形で、本作りから販売まで、すべて面倒を見て頂くことになって、とにもかくにも、「正論新聞社出版局」はスタートした。斎藤社長には、末筆ながら、お礼を申し上げておく。

当分は、恒友出版のお世話になりながら、正論らしい〝意欲的な出版〟を目指して、努力をつづけてゆきたい、と考えている次第。本紙同様のご指導、ご叱正をお願い申し上げたい。

なお、収めた三篇のうち巻頭の「新宿慕情」だけは、共同通信社「記者ハンドブック」による送りがなを用いているので、他の二篇とは違う。しかし、「正論新聞」をはじめ、現在は、この用法に統一していることをお断りしておきたい。

正論新聞十周年パーティーを旬日に控えて

三 田 和 夫

最後の事件記者 p.456-457 奥付

最後の事件記者 p.456-457 奥付 新宿慕情 定価1,200円 昭和50年11月18日印刷 昭和50年12月1日発行 著者 三田和夫 発行所 正論新聞社出版局
最後の事件記者 p.456-457 奥付 新宿慕情 定価1,200円 昭和50年11月18日印刷 昭和50年12月1日発行 著者 三田和夫 発行所 正論新聞社出版局

新宿慕情
定価1,200円

昭和50年11月18日 印刷
昭和50年12月1日 発行

著 者  三 田 和 夫
発行所  正論新聞社出版局
東京都新宿区三光町8 大木ビル
電話・東京(03)354-8101(代)

発売元 恒友出版株式会社
東京都港区六本木3-15-22 町山ビル
電話・東京(03)402-1631(代)

印製製本 ジャストン
© KAZUO MITA

出版コード番号 0036-75116-2291

新宿慕情 見返し-カバーそで 著者略歴

新宿慕情 見返し-カバーそで 著者略歴
新宿慕情 見返し-カバーそで 著者略歴

著者略歴

☆大正10年、盛岡市に生まれる。

☆昭和18年、日大芸術科卒業。読売新聞入社

☆昭和22年、シベリアより復員、読売社会部に復職。法務府、国会、警視庁、通産・農林省の各記者クラブ詰めを経て、最高裁司法記者クラブのキャップとなる。

☆昭和33年、横井事件に関連して読売退社。

☆昭和34年、マスコミ・コンサルタント業の「三田コン」株式会社を設立するも、二年余で倒産。以後フリー・ジャーナリスト生活

☆昭和42年、元旦号をもって正論新聞を創刊

☆昭和44年、株式会社「正論新聞社」設立。旬刊2Pから4P、6P。週刊に切り替えて6P、8P。週2回各4P発行となる。

☆著書に、戦後10年秘史の「迎えにきたジープ」「赤い広場—霞ヶ関」の二部作。「最後の事件記者」「黒幕・政商たち」「正力松太郎の死の後にくるもの」などがある。

☆住所 東京都新宿区西大久保1-361-505号

新宿慕情 カバー表紙+腰巻 《正論新聞創刊10周年記念出版》

新宿慕情 カバー表紙+腰巻
新宿慕情 カバー表紙+腰巻

表紙

新宿慕情 三田和夫

腰巻・オモテ

〝最後の事件記者〟を自負する元読売社会部記者が、真実を追い求めて事件のまっただなかに飛びこんで行った激動のドキュメント。そして、鋭い筆法の底に流れる正義感とリリシズム——。記者魂を余すところなく語る感動の名著。《正論新聞創刊10周年記念出版》

新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏 収録内容案内

新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏
新宿慕情 カバー裏表紙+腰巻裏

裏表紙

腰巻・ウラ

新宿慕情
四十年以上もの〈新宿〉との関わり合いを語りながら、著者の〈社会部記者魂〉ともいうべき、頑固な人生観を述べていて、飽きさせない。軽い筆致でたのしく、人生を説いている。

事件記者と犯罪の間
昭和三十三年、著者は、安藤組による「横井英樹殺害未遂事件」を、読売社会部の司法記者クラブ詰め主任として、取材しながら、大スクープの仕掛人として失敗。退社して、犯人隠避容疑で逮捕された。

最後の事件記者
著者の読売社会部時代の、数々のエピソードを綴りながら、大新聞の内部からの、新聞・新聞記者とはなにか、と問いかけている。自伝的構成になる著者の「新聞と新聞記者論」。

事件記者と犯罪の間 p.150-151 オレと立松と萩原と尽きせぬ悪縁だよ

事件記者と犯罪の間 p.150-151 「立松が逮捕された時には、オレがやはりこうして付添っていったっけナ」「そして、今度はオレが警視庁キャップで三田の付き添いか」
事件記者と犯罪の間 p.150-151 「立松が逮捕された時には、オレがやはりこうして付添っていったっけナ」「そして、今度はオレが警視庁キャップで三田の付き添いか」

事件記者と犯罪の間(我が名は悪徳記者)

昭和三十三年七月、著者は、安藤組による「横井英樹殺害未遂事件」を、読売社会部の司法記者クラブ詰め主任として、取材しながら、大スクープの仕掛人として失敗。退社して、犯人隠避容疑で警視庁に逮捕された。

二十五日間の留置場生活ののち、保釈で出所した著者は、文芸春秋誌に、そのてん末を百五十枚の長篇としてまとめて発表した。

これは、読者に大きな反響を呼んで同年の文春読者賞に入賞し、さらに、東宝で映画化された。

その名は悪徳記者

社旗よさらば!

その日は、毎日通りなれている日比谷から桜田門へのお濠端が、まぶしいほどに明るかった。私にとっては、その景色もしばらくの見納めだ。自動車の先の赤い社旗が、お濠を渡る夏の風にハタめく。

フト、何時かもこんな情景があったゾ、と私は想い起していた。去年の十月、私が司法記者クラブのキャップになって間もなく、売春汚職事件にからまる立松事件の時だった。事件の捜査を担当した東京高検から、記者クラブの私に対して、「立松記者を出頭させてもらいたい」と要求があり、私が付き添ってこの通りを走っていたのだった。

「立松が逮捕された時には、オレがやはりこうして付き添っていったっけナ」

「そして、今度はオレが警視庁キャップで三田の付き添いか」

「ハッハッハ。〝因果はめぐる小車〟だなあ。オレと立松と萩原と、尽きせぬ悪縁だよ。ハッハッハ」

事件記者と犯罪の間 p.152-153 私に与えられた名は〝悪徳記者〟

事件記者と犯罪の間 p.152-153 あの社旗のもとで、身体を張り職を賭して存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに石もて追われようとも、私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。
事件記者と犯罪の間 p.152-153 あの社旗のもとで、身体を張り職を賭して存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに石もて追われようとも、私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。

私は傍らの萩原記者を顧みて笑った。昭和二十三年から四年にかけて、この三人は司法記者クラブで一緒に、「朝連解散」の特オチをやった仲だった。そして、その頃の三人を検事として知っている中村信敏弁護士が、立松事件にひきつづいて、私にもついていて下さったので、私と萩原との笑いに合せて笑っておられた。

全く悪縁であった。立松記者が逮捕された時は、私の担当する検察庁だったので、私が先頭に立って検察の不当逮捕を鳴らし、検事諸公の反感をも大分買ったりしながらも、立松君の面倒を見たのだったが、今度は私が警視庁に逮捕されて、萩原君にすっかり面倒を見てもらう羽目となったのである。

だが、事情はすっかり違っていた。名誉毀損事件の不当逮捕は、立松君を〝英雄〟にしたのだが、横井殺人未遂事件の暴力団を逃がしたという犯人隠避事件で、すでに逮捕状の準備されている私に与えられた名は、〝悪徳記者〟!

こんな違いをハッキリと自覚しながらも、私の笑い声は明るかった。朝、家を出る時に妻にいい残した言葉は、「いいか、武士の向う傷だ。国法にふれたのだから、罪は罪だが、武運拙く敗れた賊軍なのだ。オレの留守中は、胸を張って歩け。新聞記者として恥ずべき何ものもないんだから」というものだ。

ハタハタと鳴る赤い読売の社旗が、気持良く眼にしみる。あの旗は、昭和十八年十月二日、入社二日目に初めてタダ一人で乗った自動車に、ひるがえっていた旗と同じ旗だ。あの時の、「オ

レは新聞記者になったンダ」という、身ぶるいのしそうな感激が、今、逮捕状の待つ警視庁へ向う瞬間にも襲ってきた。

あの社旗のもとで、身体を張り、職を賭して、存分に働いた十五年であった。今、辞表を出して〝元記者〟となり、〝悪徳記者〟の名のもとに、新聞記者なるが故の厳しい批判と、冷笑やレンビンの石もて追われようとも、警視庁の正面玄関を昇ってゆく私の心には、読売の赤い社旗がハタハタと鳴っていたのである。

昭和三十三年七月二十二日、私は犯人隠避容疑の逮捕状を、警視庁地下の調べ室で、捜査第二課員によって執行された。「関係者の取調べ未了」という理由で、刑訴法に定める通り、二十日間の拘留がついた。そして満期の八月十三日、私は「犯人隠避ならびに証拠湮滅」罪で起訴され、意外にも早い同十五日に保釈出所を許された。逮捕から拘禁を解かれるまで二十五日であった。

グレン隊と心中?

事件というのは、改めていうまでもない。さる六月十一日、銀座の社長室を襲って、ひん死の重傷を負わせた横井事件で、殺人未遂容疑の指名手配犯人となった、渋谷のグレン隊安藤組幹部小笠原郁夫(二六)を、北海道旭川市に逃がしてやったということである。これが、私の〝悪徳〟ぶりの中身であった。

出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に

行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

事件記者と犯罪の間 p.154-155 まだヤマ(犯罪事実)をゲロ(自供)していないからだ

事件記者と犯罪の間 p.154-155 警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。
事件記者と犯罪の間 p.154-155 警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。

出所して自宅へ帰った私は、まず二人の息子たちを抱き上げてやった。ことに、逮捕と同時に

行われた家宅捜索から、早くも敏感に異変をさとり、泣き出してしまったという、三年生の長男には、折角の夏休みの大半を留守にしたことを謝ったが、新聞雑誌に取上げられた私の報道をみて、私が「グレン隊の一味」に成り果ててしまったことを知って、いささか過去十五年の新聞記者生活に懐疑を抱きはじめたのであった。

無職の一市民として、逮捕、警察の調べ、検事の調べ、拘禁された留置場の生活、手錠、曳縄など、いわゆる被疑者と被告人との経験を持ったということは、私が新聞記者であっただけに、又と得難い貴重な教訓であった。

失職した一人の男として、今、感ずることは、「オレも果してあのような記事を書いたのだろうか」という反省である。私の、長い記者生活は、それこそ何千本かの記事を紙面に出しているのであるが、私の記事の中に、あのような記事があったのではないか、ということである。

私は確信をもって、ノーと答え得ない。自信を失ったのである。それゆえにこそ、私は〝悪徳〟記者と自ら称するのである。一人の男が相手の男を拳銃で射殺せんとした——殺人事件である。だが、これが戦争という背景をもち、戦闘という時の経過の中で、敵と味方という立場であれば、話は別である。しかし、その〝射殺〟という事実には間違いはない。背景と時の経過と、立場なしに取上げられたのが、私の「犯人隠避」であった。その限りでは、私に関する報道には間違いがなかったのである。ところが、それに捜査当局の主観がプラスされてくると、もはや事実ではなくなってくるのである。

警視庁での調べの間、私は捜査官に「どうしても納得がいかない」と責められた。これが、「納得がいかない——理解してやろう」という好意で出てくる場合と、「納得がいかないのは、まだヤマ(犯罪事実)をゲロ(自供)していないからだ」という、下品な岡ッ引根性から出てくるものと、二通りあったのである。ところが、検察庁での調べになると「犯罪の構成要件さえガッチリと固めておけば良い」という態度である。納得がいくもいかないも、被疑者の心理状態など、全くお構いなしである。

捕えたものは起訴せねば……、起訴したものは有罪にせねば……の、ただそれだけのようである。もっとも、検事個人の人間的差はあるのだろうが、私は、ここに、司法官僚と内務官僚との宿命的対立の基盤になっている、何ものかを感じた。

何が納得がいかないか? これは調べが進むと同時に、捜査官の胸中に浮んできた疑問であった。何故、私が十五年の記者経歴を縁もゆかりもない一人のグレン隊のために、棒に振ったか? という疑問である。

調べの進展と同時に、私はグレン隊安藤組と過去において、何の関係もなかったことが明らかになった。事実その通りである。またどうしてもという義理ある人の依頼もないことが判ってきた。脅かされたという事実もなければ、ましてや、金で誘われたこともないと判明した。しかし、本人は勤続十五年の一流新聞を辞職している。末は部長となり、局長となると目された(?)人で、腕は立つ(?)のである。それが一ゴロンボーのために、名誉と地位と将来とを棒に振った

のである——納得がいかないのも無理もない。