
二人で日比谷公園にまでお茶をのみに出かけた。
『オイ、岸首相が総監を呼びつけたという大ニュースが、どうしてウチにはのらなかったのだい。まさか政治部まかせじゃあるまい」
と、私はきいた。
『ウン、原稿は出したのだが、それが削られているンだ。実際ニュース・センスを疑うな。削った奴の……』
彼は渋い顔をして答えた。
『どうしてウチは事件の記事がのらねエンだろう。実際、立松事件の影響は凄いよ』
『イヤ、社会面は事件だというオレたちの考え方自体が、もう古いのじゃないか?』
『エ? じゃ、社会部は、婦人部や文化部や科学部の出店でいいというのか?』
私は反問した。〝社会部は事件〟と思いこんで生きてきた十五年である。それが「古い」ンだって?
立松事件の、責任者処分で、読売社会部は全く一変した。私のように入社第一日目以来の社会部生え抜きには、一変というより「弱体化」であった。社会部長が社会部出身でなくとも、それが即ち「弱体」だとは思われない。部長は統轄者だからである。
適切な補佐役さえいれば充分である。金久保部長は、事実、社会部を知らないけど、意欲的な部長だった。就任と同時に、部員を知るために、各クラブ単位で膝つき合わせての懇談が始まった。司法クラブでは、無罪になる裁判が多いことが話題になるや、