大正10年(1921)6月11日岩手県・盛岡市生まれ。
三田源四郎・ツヤ夫婦の6人兄弟の末弟として生まれる。父・源四郎(医学博士、開業医)は、和夫2歳のときに嗜眠性脳膜炎のため早逝。母・ツヤは、幕末の豪商小野組の一族で、明治の女らしく夫亡きあとわんぱくでやんちゃな和夫をときには庭木に縛り付けてまで厳しく育てた。
(以下は『最後の事件記者』より抜粋)「大正十年六月十一日、大阪府下豊中郡(現豊中市)で私は生れた。当時、九大助教授を辞して、大阪市に大きな外科病院を経営し、その院長となっていた、父源四郎の五男であった。生後一年半で、〝医者の不養生〟から脳炎に倒れた父に死別し、一家は郷里岩手県盛岡市に帰ってきた。キリスト教会の幼稲園から、県立女子師範の付属小学校二年に進んだ時、一家はあげて東京へ移り住んだのである。」
昭和14年(1939)府立五中(旧・小石川高校、現・都立小石川中等教育学校)卒。 (18歳)
五中というのは、「創作、開拓」をモットーとした、自由主義校であった。私の人間形成に、この中学の影響は極めて大きかった。
五中生の創作活動というのは、学校の奨励と相俟って、極めて盛んだった。その時、キクチ・ショウイチが演劇部というのを新設したものだから、私はイの一番に参加した。そうして、新協、新築地、文学座などと、当時の新劇公演をみて歩くうち…
浪人生活に入った私は、もう完全に演劇青年だった。やはり、五中の先輩のいた劇団東童で実践活動に入ってしまった。母親はこのグレた末息子に手を焼いて、徴兵の年がくると、「どうか、学校だけはいっておくれ、お父さんに顔向けできないよ」と哀願した。
徴兵逃れに、私は母の頼みで上智大学に入ったが、ドイツ語をサボったので二年に進級できない。私は演劇青年だから、落第したのを機会に、日大芸術科へ入学するといったけれども、長兄が「学資を出さない」と、日大入学を認めてくれない。
それを聞いた次兄が乗り出してきた。
「ヨシ、学費はオレが心配してやるから、その代り小遣いは自分でやれ」といって、私の日大入学を支持してくれた。
(『最後の事件記者』より)
昭和17年(1942)『ニッポン-フィリッピン』誌編集部勤務。(21歳)
しかし私は昔の苦学生で、今でいうアルバイト学生だった。次兄との約束もあり、銀座の喫茶店のボーイ兼バーテン兼マネージャーをしたり、コンサート・マネージャーをしてみたりして、小遣銭、というより遊ぶ金を稼いだのだった。
太平洋戦争が始まり、日本軍がマニラを占領するや、ライフの向うを張って、フィリピン向けに作られた、国策グラフ誌「ニッポン・フィリピンズ」が発刊されると、午後からその編集部につとめて、故人のユーモア作家小此木礼助に編集を教わり、二紀会の橋本徹郎や若き日の亀倉雄策にレイアウトを教わったりした。
(『最後の事件記者』より)
昭和18年(1943)日大専門部芸術科卒。 (22歳)
「私はこの日大で、作家三浦朱門の父、三浦逸雄先生に教わって、はじめて、ジャーナリズムへの開眼を受けたのだった。
『ヨシ、新聞記者か、少くともジャーナリストになろう!』
そして、日大卒業の時がきた。戦争はすでにたけなわになっていて、我々は半年の繰り上げ卒業であった。
三浦先生に相談して、朝日、読売、NHKのアナウンサーと、三社を受験した。みな、それぞれに何十倍という競争率だった。
読売とNHKとからは、予期通り採用通知がきた。読売は約五百名の志願者から、十名を採用したが、一番が慶応、二番が私の日大、東大が五番、京大が七番であった。」(『最後の事件記者』より)
※一番・慶応は、青木照夫(のちの読売・社会部長)
昭和18年(1943)読売新聞社入社。社会部に配属。(22歳)
「だが、読売をとるべきか、NHKをとるべきかで、私は大いに迷った。いろいろと御相談に乗って頂いた朝日の伊東局長などは、「NHKになさい」とすすめて下さった。今にして思えば、実に将来を見通されていたお言葉だったのであるが、私はついに読売をえらんでしまったのである。
その第一の理由は、すでに徴兵検査を受けており、何時召集されるかわからないし、召集されたなら、生きて再び社へ帰ってくることは期待薄だったのである。私は考えた。
『戦死ならば良い。しかし、負傷だけで帰ってきたらどうしよう』と。
私は少年時代からギッチョになり、字も左右両方で書けるのである。右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。そう思ったのだ。」(『最後の事件記者』より)
昭和18年(1943)11月兵役のため休職。(22歳)
昭和20年(1945)8月15日(24歳)
(『最後の事件記者』より抜粋)
八月十五日。私たちは意外にも北支から満州へ転進して、すでに満ソ国境に布陣していた師団主力へ追及できず、新京に止まっていた。すでにソ軍は満領へ侵入を開始していたので、私たちの大隊は新京防衛部隊に編入された。
八月十四日の命令で、明十五日未明、有力なるソ軍戦車集団が、新京南郊外へ来襲するというので、各隊はそれぞれ徹夜で陣地構築に努めていた。
タコツボに潜んだ。今度こそ最後だと思った。ソ軍戦車へは一兵が一台。五発の集束手榴弾を抱いて飛びこみ、無理心中をはかるだけの戦法だ。ジッと前方の闇をすかしてみる。地に耳をつけて、キャタピラの轟音を聞きとろうとする。
朝があけてきた。まだ、ソ軍戦車はやってこない。やがて正午の玉音放送だった。
昨夜の断腸の思いの、新聞記者への別れも、再びつながれた。解放感がこみあげてきた。私の心ははや東京へと飛んで、「再びペンを握れる!」というよろこびで、もう一ぱいだった。
部隊は武装解除されて、シベリアヘと送られた。
昭和20年(1945)9月16日 シベリア抑留(24歳)
(『迎えにきたジープ』より)
私は終戦時新京にいたのだが、公主嶺でソ連軍の捕虜になった。九月十六日、私たちの列車が内地直送の期待を裏切って北上をつづけ、ついに満州里を通過したころ、失意の嘆声にみちた車中で、私一人だけは鉄のカーテンの彼方へ特派されたという、新聞記者らしい期待を感じながら街角で拾った小さな日露会話の本で、警乗のソ連兵に露語を教わっていた。
イルクーツクの西、チェレムホーボという炭坑町に丸二年、採炭夫から線路工夫、道路人夫、建築雑役とあらゆる労働に従事させられながらも、あらゆる機会をつかんではソ連人と語り、その家庭を訪問し、みるべきものはみ、聞くべきものは聞いた。
(『わが名は「悪徳記者」』より)
昭和十八年の秋、私は読売新聞に入り、すぐ社会部に配属された。やがて出征、そして終戦。私の部隊は、武装解除されてシベリアに送られたが、その軍隊と捕虜の生活のなかから、人を信ずるという信念が私に生まれてきた。今度の事件で、まったくなんの関係もないのに、事件の渦中に捲きこんでしまった人、塚原勝太郎氏は、この地獄の中で私の大隊長だった人である。私は彼を信じ、彼もまた私を信じて、普通ならば叛乱でも起きそうな、〝魔のシトウリナヤ炭坑〟の奴隷労働を乗り切ったのである。
細い坑木をつぶしてしまう落盤、たちこめる悪ガス、泥濘の坑床、肩で押し出す一トン積みの炭車、ボタの多い炭層――こんな悪条件のなかで、「スターリン・プリカザール」(スターリンの命令だ)と、新五カ年計画による過重なノルマを強制される。もちろん、栄養失調の日本人に、そのノルマが遂行できるわけはなかった。そのたびごとに、塚原さんは大隊長としての責任罰で、土牢にブチ込まれた。寒暖計温度零下五十二度という土地で、一日に黒パン一枚、水一杯しか与えられない土牢である。こんな環境から生まれた、人間の相互信頼の気持である。
昭和22年(1947)2月8日 ペトロフ少佐に「スパイ誓約書」を提出。(25歳)
(『迎えにきたジープ』より)
『今日の日付、一九四七年二月八日…』
『私ハソヴェト社会主義共和国連邦ノタメニ命ゼラレタコトハ、何事デアッテモ行ウコトヲ誓イマス(ここにもう一行あったような記憶がある)
コノコトハ絶対ニ誰ニモ話シマセン。日本内地ニ帰ッテカラモ、親兄弟ハモチロン、ドンナ親シイ人ニモ話サナイコトヲ誓イマス。
モシ誓ヲ破ッタラ、ソヴェト社会主義共和国連邦ノ法律ニヨッテ、処罰サレルコトヲ承知シマス』
昭和22年(1947)10月30日 引揚船・第一大拓丸で舞鶴に帰還。(26歳)
(『迎えにきたジープ』より)
昭和22年(1947)11月シベリアより引き揚げ、復職。(26歳)
法務府、国会、警視庁、通産省、農林省、各記者クラブを経る。
昭和27年~昭和30年(1952~1955) 警視庁記者クラブ詰め(七社会) (30歳~34歳)
昭和27年・初夏
「その年の初夏から、警視庁の記者クラブへ行っていた私は、この企画のため、辻本次長に呼び返された。といっても、もちろん、クラブ在籍のままである。その年の春、チョットした婦人問題を起して、クサリ切っていた私を、気分一新のため警視庁クラブへ出し、そして、初仕事ともいえるのが、この「東京租界」であったのである。」(『最後の事件記者』より)
昭和28年(1953)「東京租界」が第1回菊池寛賞受賞。(読売新聞社会部・原四郎氏を中心とする同社会部の暗黒面摘発活動)
昭和30年・夏
「警視庁に丸三年にもなったので、そろそろ卒業させてもらって~」「こうして三十年の夏から、通産、農林両省のカケ持ちをやっていたところに、キャンペーンに召集がかかってきた。ヒマで困っていたので、よろこび勇んで、はせ参ずると、ニセ信者になって、交成会に潜入して来いというのだ」(『最後の事件記者』より)
昭和30年(1955)7月15日 『迎えにきたジープ』刊行。(34歳)
「昭和二十四年の暮れ、私は梅ヶ丘の都営住宅に入り、青木も、空家抽せんで、同じ平屋一戸建の都営住宅に入居していた。
寒さが、しんしんと夜気を静まらせていた深夜、米占領軍のジープの音が響き、声高な罵り声が聞こえて、目が覚めた。何事かと起き出して行ってみると、ジープが止まっているのは、青木の家だったのである。
二日か、三日、青木は帰ってこなかった。もちろん、出社していなかった。数日後に青木の家をのぞいてみると、元気のない様子で、彼が現われた。
その夜、二人は話し合った。彼が、「スパイ誓約書」に署名し、合言葉の男が訪ねてきたことを、私に打ち明けたのである。」~『読売梁山泊の記者たち』第三章米ソ冷戦の谷間で〈幻兵団〉の恐怖より
「この『迎えにきたジープ』は、いわばこのシリーズものの序章である。門口に止ったあのジープ特有の力強い爆音! ジープが迎えにきたナッ? と感じた瞬間の、あの不安と混乱と恐怖の感情とは、そのジープがアメリカのものであるかソ連のであるかを問わず、一個人の感情ではなくて、米ソの間にはさまれた日本全体の感情である。」~『迎えにきたジープ』あとがきより
昭和30年(1955)7月30日 『赤い広場―霞ヶ関』刊行。(34歳)
「この数冊の『東京秘密情報シリーズ』は、私のライフ・ワークにもと願ってまとめあげたものである。それだけに、大袈裟にいうならば、私の十年余の記者生命をかけているつもりである。
『真実』を伝えるということは、また同時に勇気がいることである。それによって不利益を受ける人たちの反撃は、実際に恐いのである。私も本音を吐くならば、この著を公けにすることはコワイのである。不安や恐怖を感ずるのである。~しかし、『真実を伝える』ということのため、私は勇気を奮って関係者の名前を実名で登場させたのである。
戦後の十年。この十年間ほど、日本が激しく大きく揺れたことはないだろう。~そして、私にとって幸いだったのは、私は一貫して公安関係(左翼、右翼、外事)の取材を担当できたことであった。その意味では、この著は日本の戦後十年史の一断面でもある。」~『赤い広場—霞ヶ関』あとがきより
巻末の広告によると、「東京秘密情報シリーズ」は、第一巻『迎えにきたジープ』、第二巻『赤い広場—霞ヶ関』、第三巻『偽りの赤十字—何日君再来—』、第四巻『羽田25時—賭博と女と麻薬と—』、とあるが、発行されたのは最初の2巻だけで、残る2巻は未刊のまま終わってしまった。タイトルから想像すると、おそらく、第三巻は中国・共産勢力関係、第四巻は東京租界関係、だと思われる。発行されなかったのが、果たして関係者などからの妨害によるものか、著者自身の不安によるものなのか、それとも単に出版社倒産などの事情によるものか、いまとなってはわからない。
昭和32年(1957)6月最高裁判所司法記者クラブ詰め。(36歳)
昭和33年(1958)7月横井事件に関連して、読売新聞社を退職。(37歳)
(『わが名は「悪徳記者」——事件記者と犯罪の間——』より)
「わが事敗れたり」と私は悟った。事、志と反して、ついにここに至ったのだ。私はそれでも当局より先に、事の破れたのを知ることができた幸運に、「天まだ我を見捨てず」と喜んだ。
私は事件記者である。警視庁にも三年いたし、警察庁も知っているし、「警察」や「警察官」や「捜査」や、「その感情」にいたるまで知悉していた。現在の事態を判断すれば、当局は感情的にさえなって、私を逮捕するに違いないとみた。起訴と不起訴は五分五分、有罪無罪も五分五分だが、逮捕と目いっぱい二十日間の拘留とは、間違いのないところだ。「ヨシ、二十三日間入ってこよう」と決心した。
務台重役はニコニコ笑われて、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片付いたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえくださった。私はそれでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。記者としての私を理解していただけたからである。
昭和33年(1958)9月文芸春秋10月号に「事件記者と犯罪の間」発表(文春読者賞)。(37歳)
昭和33年(1958)12月30日 『最後の事件記者』刊行。(37歳)
昭和34年(1959) 株式会社三田コンサルティング・サービス設立。(38歳)
略称「三田コン」。マスコミ・コンサルタント業という時代に先駆けた業種だったが、2年あまりで倒産。以後、フリー・ジャーナリスト生活。
昭和35年(1960)2月 東宝映画「非情都市」(三田和夫原作)公開。(38歳)
『最後の事件記者』を原作とした映画「非情都市」が製作・公開される。
監督・鈴木英夫 脚本・井出雅人 製作・市川久夫
主演 三橋達也 司葉子
解説 一社会部記者のマスコミと資本の壁に抵抗する姿を描いたサスペンス・ドラマ。三田和夫の手記より、「総会屋錦城 勝負師とその娘」の井手雅人が脚本を執筆、「社員無頼 (怒号篇)」「社員無頼 (反撃篇)」の鈴木英夫が監督した。撮影は「独立愚連隊」の逢沢譲。
昭和42年(1967)「正論新聞」創刊。(46歳)
(『新宿慕情』はしがきより)
私が、「正論新聞」という、小さな一般紙をはじめてから、早いもので、もう十周年を迎えることになった。
大判一枚ペラの「正論新聞」は、昭和四十二年元旦号から創刊された。だれもスポンサーはおらず、私が、取材して原稿を書き、読売の友人が整理をしてくれた。妻が事務を取り、長男の高校生が、友人たちを集めて、有楽町駅前で撒いた。
旬刊の目標だったが、まったくの独力なので、二、三号出すと資金がつきた。私はまた、雑誌原稿を書き、稿科を貯めた。第三種郵便物の認可も、既刊三号を添えての申請だから、一向に取れなかった。
事実上の不定期刊で、「正論新聞」は、息も絶え絶えであった——そこに、日通事件が起こった。昭和四十三年夏のことだった。
この日通事件を、政治検察の動き、と見て取った私は、直ちに、「検察体質改善キャンペーン」を始め、検察派閥の攻撃記事を掲載して、有楽町と霞が関、そして、検察ビルの門前で撒いたのだった。
昭和43年(1968)11月30日 『黒幕・政商たち』刊行。(47歳)
(『黒幕・政商たち』あとがきより)
本篇に収録したものは、「現代の眼」「二十世紀」「軍事研究」「自由世界」「財界」「株主手帳」「経営経済」などの、月刊諸雑誌に、その折々に書いたものに、手を入れたものである。
フリーになっての十年は、それこそ山あり谷ありであった。
新聞を外部から眺める立場を得、はじめて「言論・報道の自由」の意義を理解し、そして、ここ十年の主張である「マスコミ虚像論」に結実したのであった。
真実を伝えることの勇気——現在の私には、失うべき何ものもないのだから、恐怖も不安もない。私の読売同期生はもう一等部長になっている。彼のその収入と地位とは、やはり、ある時には彼を臆病にする大きな要素であろう。名誉も地位も金もなく、ただ〝版木〟だけある私はなおも取材し、書き続けるだろう。
昭和四十三年十月
昭和44年(1969)12月15日 『正力松太郎の死の後にくるもの』刊行。(48歳)
昭和50年(1975)12月1日 『新宿慕情』刊行。(54歳)
平成3年(1991)12月10日 『読売梁山泊の記者たち』刊行。(70歳)
(『読売梁山泊の記者たち』あとがきより)
原さんの没後、私は、「原四郎の時代」というタイトルで、正論新聞の第四面を埋めて四十二回の連載を書きつづけてきた。およそ、八百枚もの原稿を、半分の四百枚に圧縮…
「序に代えて」という一章を加えさせて頂いた。これは、「人物往来」誌に書いた、渡辺・覇道社長批判の一文なのだが、これまた、三十余枚の長文だったので、削りに削って、フンイキがややこわれてしまった。
それともう一点。「立松事件」の項で、河井信太郎検事と、その〝お庭番〟大竹宗美・文春嘱託記者、児玉誉士夫氏の三角関係について、私が知る限りの事実を書いた部分が、立松事件の流れに、直接、関係がないということから、割愛せざるを得なかった…松本清張というインチキな人物が、河井検事と組んで、検察の正史を歪め(検察官僚論)、盗作、代作の限りを盡した(日本の黒い霧、昭和史発掘、深層海流など)事実を、私が告発している部分だから、である。
古い新聞記者像を知ることが、明日の記者の仕事に、プラスになることを信じて、書き殴った八百枚に手を入れた。脈絡が切れ、興味もまた、半減したおそれもあろうが、ご寛恕頂きたい。