〝夢の興行〟解散へ
「市村学校」の後退
一流財界人百氏の動員を、半年間でなしとげた御喜家氏も、たった〝一部の妨害〟のため、わずか三カ月で退陣を余儀なくされ、看板のハカナさと過信のほどを思い知らされることになった。フン詰りの状態が続いて、氏はついにランドの役員就任をあきらめ、一株主としての協力を表明せざるを得なくなったのである。
三十九年二月から同年夏までの半年間、これをサイエンス・ランド問題の第一期と呼ぼう。
われわれは、ここに、資本金十億、百人の財界人を発起人として、青少年科学教育振興という大旆を掲げ、国有地六万坪を事業場にしようという、〝華麗〟なる事業が、純民間べースの間は、順調にすべりつづけたにもかかわらず、政官界との接触がはじまると同時に泥にまみれ、戸川貞雄氏を退け、内山知事を除き、社長予定の山村鉄男氏が去り、ついには主唱者の御喜家氏自身が葬られるという、ハンケチが雑巾に変りゆく過程を、ハッキリとみることが出来た。
その原因は何かといえば、冒頭に述べたように、「国会における質問、という名の〝政治問
題化〟」の一言につきる。
さて、舞台は廻って第二期に入る。
この第二期の説明も、まず、印刷物によって、事実を確かめてみなければならない。印刷物とはいっても、六通の文書である。このうち三通の大蔵省と県の公文書をみると、田川パンフレットが、何故か、古い資料にのみもとづいて、構成されていることが、明らかになってくる。
ランドは、三十九年三月十七日に設立登記しようとして、書類その他の準備を進めていた。その時の書類をみると、設立発起人として、十四名をあげている。この第二期における、事態の変化を知るため、その十四名の名簿を見なければならない。
市村清(リコー社長)、長沼弘毅(日本コロムビア会長)、藤井丙午(八繙製鉄副社長)、松原与三松(日立造船会長)、本間嘉平(大成建設社長)、藤井深造(新三菱重工社長)、岡崎真一(同和火災海上会長)、水野成夫(サンケイ新聞社長)、渡辺武次郎(三菱地所社長)、越後正一(伊藤忠商事社長)、市川忍(丸紅飯田社長)、山村鉄男、小谷正一、御喜家安太郎の十四氏である。
この時の設立発起人代表の十四氏以外の、「発起人として御協力を頂く旨の御承諾を得ております」名簿は、実員九十九名、帝国石油岸本社長が抜け、森永製菓森永社長、山陽パルプ難波社長の二氏が新加入している。この時期には、ついに会社の設立が叶わなかったのは、前にのべた通りである。