黒幕・政商たち p.148-149 すべての事態は好転しあとは…

黒幕・政商たち p.148-149 三月、自民党県連会長である河野国務相がランド反対を表明した。一方、田川議員もまた、県政記者クラブに現れて会見を行い、ランド反対を一席打ったのである。
黒幕・政商たち p.148-149 三月、自民党県連会長である河野国務相がランド反対を表明した。一方、田川議員もまた、県政記者クラブに現れて会見を行い、ランド反対を一席打ったのである。

その〝実力〟を知ったランド側は、フン詰り脱却のためのコンサルタントとして、氏の指導を仰ぐことになったのである。こうして、発起人の再編成が行なわれた。九十九名の配役表は、姿を消し、ホンモノの発起人十二氏が固まった。この時、サンケイ水野氏も退陣し、五千株の

一株主となって、ランドは芝山氏に敬意を表した。

名の通った財界人十二氏の結束により、ランドは改めて、用地確保の運動をはじめたのである。そこには、ハッタリやテライもなくなり、事業としてのオーソドックスなビジネスだけになったのであった。

市村清社長から、その親しい三木幹事長へも陳情が行われ、安西正夫昭電社長からは、森清氏を通し、河野国務相の実弟、河野謙三参院議員へも了解が求められた。

地元の神奈川県会も同様である。まず、社会党への説得が行なわれ、事業の本質への理解を得て、常盤浄副議長が賛成した。その結果は、同じ社会党の飛烏田一雄横浜市長の支持である。県議会への了解と同時に、県会議員の選挙母胎である、市長会、市議長会が賛成へ動いて、前記のような「意見書」による支持表明へと進んだ

〝河野一郎のクシャミ〟

すべての事態は好転し、あとは、県議会における承認と、大蔵省の審議会への諮問とその答申を待つばかりとなったのである。

これらの動きが、三十九年夏から四十年二月へかけての半年間、いわゆる第二期のランドの姿である。そして、このような好転の変化が、芝山氏の働らきであるかどうかは、断定し得る

限りではないが、少くとも、氏のコンサルタントとしての助言の成果ではあろう。やはり、財界人は財界人らしく姿勢を正し、オーソドックスな形での事業を進めるべきであるという、絶好の教訓なのであった。

つづいて、ランドは第三期に入る。すなわち、四十年三月以降、会社解散までである。この第三期に入って問題の田川パンフレットが登場するのである。第三期の客観的事実といえば、印刷物では、この田川パンフレットだけである。しかし動きではいろいろなことが起きている。

まず、三月、自民党県連会長である河野国務相がランド反対を表明したのである。一方、田川議員もまた、三月のある日、本会議を抜け出して、県政記者クラブに現れて会見を行い、ランド反対を一席打ったのである。その際、三木幹事長に肩を叩かれたが、「総理にいわれても、私はランドに反対だ」と、語ったといわれる。

さて、いよいよ、さきに紹介した通り、田川パンフレットの問題点の解明に入らねばならない。そして、その問題点の監視が、青壮年向け政治社会教育の、早分りパノラマの見どころでもあるのである。

田川パンフレットを読み終えての、第一印象は、この文章にみる限り、田川議員がその政治生命をかけての、ランド反対——すなわち国有地の厳正な処分という、不退転の決意が現れていない、ということである。