黒幕・政商たち p.198-199 志賀氏の真意も疑惑を衝くに

黒幕・政商たち p.198-199 初期には、〝進んで会って材料を出した〟志賀氏が、〝私も手を引く〟と電話し、会うのを避けている。志賀氏の「獄中十八年」の節操を信ずればこそ、〝奇怪な行動〟といわざるを得ない
黒幕・政商たち p.198-199 初期には、〝進んで会って材料を出した〟志賀氏が、〝私も手を引く〟と電話し、会うのを避けている。志賀氏の「獄中十八年」の節操を信ずればこそ、〝奇怪な行動〟といわざるを得ない

週刊誌では「新潮」だけで、小新聞が前述の通りの、「マスコミ」と日刊観光。この二つの小新聞の記事を見くらべると、「マスコミ」が、「東棉」を見出しに一字も加えず、「井原代議士が介在か」、「政務次官室で取引」、「オマケに工作費も追加」、「政治への不信に拍車」と続いて、「原告は前科八犯」に終っているのが面白い。日刊観光の「東棉」ばかりの見出しと

極めて対照的で、「原告は前科八犯」に対応して、最後に「東棉側は逆にフンガイ」の見出しで終っており、第一弾の記事のうちから、「東綿」が姿を消している。週刊紙「マスコミ」と対比してみると、興味深い。

さて、このような告訴事件取材のイロハからいうと、まず告訴人、被告訴人、当局筋の見解という順序であるが、佐々木氏が旅行していてつかまらない。ある週刊誌記者にきくと、「志賀代議士がよろこんで教えるよ」といい、ある月刊誌編集長は「志賀さんは共産党を離れて無所属になったから、選挙対策もあるらしく、よろこんで会いますよ」と、教えてくれた。だが、八月三十日以来、四谷の志賀事務所と、議員会館とを追いかけつづけたが「多忙」を理由にあえないでいる。面会の目的は「広布産業事件のその後について、お話を伺いたい」と、秘書に通じてあるにもかかわらず、だ。

週刊「サンケイ」四十年九月十三日号に、「志賀義雄に招待された大阪名士三〇〇名の思惑」という記事がある。八月二十七日夜、選挙区の大阪はコクサイホテルで「日本のこえ関西総局創立記念祝賀パーティー」を開き、一枚三千円でパーティー券を、関西の名士たちに売り歩いたが、一枚を義理で買ってくれた名士たちは姿を見せなかった、という。そして、帰京したところだから、「多忙」もうなずけよう。

発端が衆院法務委の志賀質問なので、答弁に立った法務省津田刑事局長にたずねると、国会

末期の委員会で、志賀委員から「広布産業が告訴を取下げたと聞いたが、取下げの理由は何かとの質問があったので調べて返事する」と答えただけで、法務委の志賀質問も、シリキレトンボに終っているという。

ところが、日刊観光を追われたB氏は、「私のところに、志賀代議士から、私も手を引くという電話があった」という。これも〝奇怪〟なことではないか。初期には、〝進んで会って材料を出した〟志賀氏が、〝私も手を引く〟と電話し、筆者には会うのを避けようとしている印象を与えているのである。志賀氏の「獄中十八年」の節操を信ずればこそ、〝奇怪な行動〟といわざるを得ない。

告訴人佐々木氏は、ようやく締切り直前に連絡がとれて「旅行中だった。告訴は取下げた。和解の条件など、詳しいことは話すが、日を改めて」という。

佐々木氏によれば、当時の井原政務次官は、同氏の眼の前で田中角栄蔵相に電話して、防衛庁の問題の土地買上げの予算措置をしばしば接衝し、井原氏、田中氏らへの政治献金各五百万円を示唆し、それを受取ったという。志賀氏の国会質問の真意もまた、それらの疑惑を衝くにあったはずであろう。しかし〝私も手を引いた〟とは不可解であって、衆院決算委における爆弾質問は、では何のための質問であったのか。

佐藤首相秘書のD氏が、このほどさる右翼評論家を介して、クビ切られたB氏に会見を申し こんできている事実もある。「東棉」の〝痛いハラ〟をめぐる情勢は、告訴取下げによって地検特捜部の手を離れた形にはなった。