米軍占領時代、岸本派の領袖は、多く特高検事としてパージにかかっていたため馬場—河井ラインが、昭電事件を契機として勢力を植えつけた。当時の堀検事正は好々爺で、馬場次席—河井特捜検事の組み合わせは、現在の武内検事正、河井次席—栗本特捜副部長—大熊検事を想
起させる。
岸本法務事務次官は、河井検事を法務研修所教官へ左遷した。馬場最高検刑事部長は人事権がないから黙ってみていたのである。岸本次官が東京高検検事長に移るや、馬場氏が後を襲って次官となった。昭和三十二年八月、佐藤藤佐総長の停年に際し、岸本次官は総長を期したが、情勢に阻まれて、無色の花井忠総長(東京検事長)が実現した。すでに、検事長や次長検事を経て次官となった岸本氏だから、東京検事長はそれほど栄転ではなかった。当事の政治部記者の〝噂〟では、馬場次官実現に力をいたしたのは、造船疑獄のエニシで佐藤栄作氏だったといわれる。
「お願いです。検察のためです。あなた方の応援なしでは、検察は堕落します。どうか宜しくお願いします」
手を握りしめんばかりに、気魄のこもった低い声が、一人の若い検事の口から洩れた。当事新任キャップとしての、庁内挨拶回りの時の情景である。このS検事は、岸本総長が実現したら、検察は堕落すると、言外に意味していた。彼は馬場派であったのだ。
馬場次官は、研修所長官だった河井検事を法務省刑事課長という〝陽のあたる場所〟にもどした。岸本検事長の指揮下にある、東京地検へは入れなかった。検事長の停年は六十三歳、検事総長は六十五歳、二年の開きがある。花井総長が在職二年で停年が迫るや、それこそ、両派
は再び激突した。三十四年八月のこと、この停年年齢が岸本検事長の総長就任最後の機会を意味する。なぜなら、翌年四月に岸本検事長の停年がくるからだ。
逮捕されたかもしれない河井検事
佐藤総長の後任争いで、若い検事ですらこのように興奮していたのだから、花井総長の後任問題は、さらに凄まじかったであろう。馬場派の奮戦は、ついに岸本氏の二年後輩である清原最高検次長検事の、総長昇格を実現して、〝岸本総長〟を阻止し切った。
総長を阻まれた岸本検事長にやがて絶好のチャンスがめぐってきた。昭和三十二年十月十八日付の読売朝刊が、当時地検が摘発中の売春汚職で「宇都宮徳馬、福田篤泰両代議士、売春汚職で召喚必至」の、大スクープを放ったからである。その日の午後、両代議士は、読売と地検最高検を名誉棄損で、東京高検に告訴した。「ニュースソースは検事だ」という理由である。
総長会食事件にも似たケースであった。
この記事を取材、執筆したのは、読売の司法記者として高名な立松和博記者であった。彼は、当時病気上がりで、クラブ員ではなかったが、社会部長の直轄で、売春汚職取材を命ぜられていた。彼は、判事の息子で、昭電事件の連続スクープで名を馳せたのであるが、当時の最高検木内次長検事(小原派=馬場派)に、父親の関係から可愛がられていた。彼は当時、馬場次席
の下で事件を担当していた伊尾宏(浦和検事正)、羽中田金一(名古屋検事長)、河井検事らに密着し、雑談での取材打ち明け話では「検事が机上に書類をひろげていて、タバコを探して席を立つ。或いは、便所に行ってくるからといって、書類を伏せて立つと、逮捕状がハミ出ている、といった状態だった」と、私に語っている。