しかし、日本の共同通信のモスクワ特派員をひき入れるについては、かなりの困難があつた。この特派員の接触先はきわめて有力な方面だったので、私たちの方では、それだけ彼を大いに高く評価していた。
しかも彼の志操は堅固だったので、その口説き落しにはソ連諜報活動の奥の手を用いざるを得なかった。これがために外国人脅喝用としての、売淫婦の一隊を抱えている特別班をして、この特派員を引き入れる工作をさせることになった。これがために外国人脅喝用としての、売淫婦の一隊を抱えている特別班をして、この特派員を引き入れる工作をさせることになった。
そこでこの特派員(いま、彼を仮りにオグラと呼ぶ)は、たちまち当方の手中に陥った。ところが、気の毒なことには、この通信員が彼を担当したロシヤ女に恋愛した。しかし、女の方ではそんなことには一切お構いなしに、どんどんその仕事を進めた。
やがて、その女は当方の命によって、彼に対して自分が妊娠していることを告げ、なんとかして子供を生まない工夫をする必要があると話し出した。事態がここまで進展してきたとき、はじめて秘密簪察の手が伸びてきて、いわゆる「医師」なるものが登場せしめられた。かくてオグラと「妊婦」とが、その医師の診察室を訪れることとなり、ここに彼のスキャンダルが、明るみに出されようとする破目に押しつけられた。このためオグラは、当方の手先となることを応諾したのだった。
なお、この事件にはまだその続きがあって、そのロシヤ女が、まだ彼女の真の使命が分っていないので自分をしきりに恋慕しているオグラに対して、ついに結婚することを約束した。オグラが日本に帰ることになったとき、被女はなんとか理由をこしらえて同行することを避けた。
そしてまもなく彼女に対しては新しいおとりが与えられた。それはある近東の外交官であったが、皮肉にもこんどは女の方が男に恋をした。彼女は悔恨の情にたえかねて、いままでの脅喝仕事をやめようと決心した。このような間にも、オグラの方ではなおまだ女の無垢と、真実性とを信じていたので、その女が自分の使命を逸脱した行動のカドで逮捕されたというニユースを、私はオグラに知らせることができなかった。
『ウム……』
深くうなずいた係長は、その英文原稿と飜訳原稿とを持って立上った。課長室の扉は固く閉ざされた。何事かが密議された。
公安三課――ラストヴォロフ事件で名前を売り出したこの課は、一言にしていえば「外事特高」である。警視庁の組織には総務、警務、刑事、防犯などの各部と並んで、警備第一部、警備第二部という部がある。この一部の方は警備の名に相応しく、警備、警護の二課に分れて、 予備隊などの正服実力部隊を指揮するのであるが、警備第二部は「公安部」である。
警備第二部は公安第一課の左翼、同第二課の右翼、同第三課の外事と、資料を握る同第四課との四つに分れている。つまりそれぞれに思想的背景があるか、もしくは集団的威力のある犯 罪の摘発をする係である。