新宿慕情 p.058-059 前にもクドクド書いたように

新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。
新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

私が、ハンバーグから始まって、エビフライに進んだ中学生のころ、つけ合わせのスパゲティから、炒めウドンを思いついた。ウチの兄弟たちは、戦前からすでに、朝食にはパンを採用して、キャベツの炒めたのや、残り御飯を炒めたりして、それをつけ合わせにする、といった献立を考え、母親に〝強要〟していた。

当時、目白に住んでいたのだが、池袋との間に、東京パンの工場があったり、付近に、大陸帰りの人がいて、〈労研饅頭〉という名前で、中国のマントオと同じものを製造販売していたことも、朝食に、パンやマントオ(軍隊時代にも、その感激を再現したものだが、バターをつけて食うと、実に美味い)が登場するキッカケのひとつだったろう。

いまでこそ、スナックなどで、焼きうどん、などというメニューのところがあるが、油が良くないし、具が多すぎたりする。ことに、キャベツの骨まで、プツ切りにして入れたりするから、〝愛情〟に欠ける。

私などは、炒めうどんから、素麺炒めへと進んでいる。うどんにせよ、そうめんにせよ、炒めるとなると、茹で方がむずかしく、過ぎても及ばなくても、味が落ちる。

このように、創意工夫があって、はじめて〈送り手〉になれるのであって、それがなければ〈受け手〉に甘んじているしかない。それにしても、いまの若い人たちは、あまりにも、なんでも〝与えられ〟ることに、馴れすぎている。

これでは、養殖のうなぎやハマチ。ブロイラーのように、単なる〝人糞製造器〟にすぎなくなる。ワビ、サビはもとより、味などとは縁遠く、デモや内ゲバや、〝強行採決〟の働きバチとしてしか、効用価値がなくなってしまうのではないか。われわれは、《人間》なんだ、ということを、忘れないでほしい。

〝のれん〟の味

銘柄の味覚の違い

こんなことがある。

ウチの女子社員に、「雪印のコンデンスミルクを買ってきてくれ」と、頼んだ。

徹夜で原稿書きをするのに、ドリップ・コーヒーをいれるのだが、あけ方になって、疲れてくると、やや甘いコーヒーが欲しくなる。そのための、コンデンスミルクなのだ。

その娘は、「ハイ」といって買ってきてくれた。包装のまま仕事部屋に置き、真夜中に、サテというので、紙包みを開いてみたら、ナント、森永のミルクである。

ハラが立ってしまって、もう原稿が進まない。やむなく、それを使ってみたが、味が違うのでおいしくない。

いま時の連中は、ハンバーグといって出されれば、自分の知識、体験から、「これはハンバーグらしくないナ」と、疑問を抱かない。前にも、クドクド書いたように、「ハンバーグですよ」と、与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。