最後の事件記者 p.258-259 一文能く人を殺し得る記者の責任

最後の事件記者 p.258-259 ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。
最後の事件記者 p.258-259 ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。

新聞かラジオか

だが、読売をとるべきか、NHKをとるべきかで、私は大いに迷った。いろいろと御相談に乗って頂いた朝日の伊東局長などは、「NHKになさい」とすすめて下さった。今にして思えば、実に将来を見通されていたお言葉だったのであるが、私はついに読売をえらんでしまったのである。

その第一の理由は、すでに徴兵検査を受けており、何時召集されるかわからないし、召集されたなら、生きて再び社へ帰ってくることは期待薄だったのである。私は考えた。

「戦死ならば良い。しかし、負傷だけで帰ってきたらどうしよう」と。

私は少年時代からギッチョになり、字も左右両方で書けるのである。右腕を失っても左手がある。しかし、ノドは一つしかない。アナウンサーより記者の方が確率がいい。そう思ったのだ。

それと、もう一つの理由。それは、新聞とラジオとの、本質的な問題を、私は、もっと雰囲気を出して、ロマンチックに考えていたのだった。

今、官庁をはじめ、どこの記者クラブにも、新聞記者とラジオ記者とが同居している。この間の、皇太子妃の決定発表でも、新聞とラジオとがウマく協定したからよかったが、新聞とラジオとは本質的な違いがある。ラジオ記者たちは、事件を短かく簡単に、話し言葉で原稿にして、放送局へ送稿する。

ところが、彼らはそれでお終いだ。その原稿がどんな形のニュースとなり、どんな扱い方で電波に乗ったかは、全く関知しない。もちろん、携帯ラジオで、自分の原稿の行方を確かめている記者の姿を、私はまだ一度もみたことがない。

ラジオ記者は、よくそれで不安も悩みも、ましてやよろこびも感じないで、生きていられるものだと、感嘆する。新聞記者の場合は全く違う。一字一句をおろそかにしないで原稿を書く。テニヲハ一つでも、意味が変ってくるからだ。

ゲラになってから、何段でどんな見出しがついて、どんな扱いになっているかを、また見なければならない。もし、扱い方や見出しが内容と違っていれば、次の版ですぐ直さねばならない。私は、トップ記事ならば、必らず、大ゲラが出るまで残って、自分の記事の内容とその扱い方とについて、納得がいかなければ帰らなかったほどである。

それが新聞記者のよろこびであり、一文能く人を殺し得る記者の責任でもあるはずだ。〝 新聞にコロされた〟例はあるが、〝ラジオにゴロされた〟というのはきかない。

最近、ラジオやテレビの人たちの、仕事があとに残らない嘆きを聞く。テレビも電気紙芝居と自嘲する。新聞の最大の強味は記録性である。ラジオとの本質的な違いである。何時でも好きな時に、とり出して読めるという、この記録性のゆえに、私は読売をえらんだのだった。