あこがれの新聞記者
というのは、昭和十八年といえば、もはや戦争をはなれて、何一つとして判断できない時期である。私は、天皇陛下のために、一命を鴻毛の軽きにおくことに、いささかもちゅうちょしない青年だったのである。
戦争に征くからには、想い出を持っていきたかった。息を引きとる最後の時には、天皇陛下万歳というよりは、もっと身近かなことを、考えたいと思った。母親! それもよい。だが、少し違う。
私は一人の女性のことを想った。その人とは、もう別れて何年にかなる。青森県の片田舎で、人妻になったとか聞く、その人のことを、何かほのぼのとした気持で懐しんでいたのである。何故ならば、私はその人で、満二十歳の誕生日の夜に、男になったからだ。
何人かの子供が生れて、村の駄菓子屋で子供にせがまれるまま、鉄砲玉を買ってやるその人。黒い飴玉を一粒、一粒、古新聞の袋からハガして、口に運んでやっている時、フト、彼女の視線が一点に凝集される!
その袋の上の黒い幾つかの点、活字が次々に大きくなって、彼女の眼に飛びこんでくる。そこに書かれた文字は、〝○○にて、三田特派員発〟という、私の署名記事である。
彼女はハッと胸をつかれて、その文字を確かめるように読みかえすであろう。袋のシワをのば
しのばし、アチコチと千切れてしまっているその記事を読みふけってあの夜のことを想い起す。もしや、この人は……。
そのころ、或は私は、祖国を遠くはなれた異境で、誰一人みとりする人とてなく、静かに眼をつむり、魂は神となって鎮まろうとしているかもしれない。それでいい。あの人に今一度、我が名を想い起さしめ、呼ばさしめるものは、たとえ、駄菓子袋となろうとも、何時までも残っている、新聞の記録性の故である。もしも、アナウンサーならば、その声は、うたかたのように、瞬時にして消え去っていってしまうだろうに。
NHKには、「採用御辞退願」という、奇妙な一文を草して郵送し、私はあこがれの新聞記者になったのである。 当時の読売は、中共の〝追いつき、追いこせ〟運動のように、朝毎の牙城に迫ろうとして活気にみちあふれていた。朝気みなぎるというのであろうか。
感激の初取材
編集局の中央に突っ立っている、正力社長の姿も良く毎日のように見かけた。誰彼れとなく、近づいては話しかけ、すべての仕事が社長の陣頭指揮で、スラスラと運んでいるようだった。
社会部をみると、報道班員として従軍に出て行くもの、無事帰還したもの、人の出入ははげしく、第一夕刊、第二夕刊と、緊張が続いて、すべてが脈打つように生きていた。