「働かざる者は食うべからず」は「食うためには働かざるべからず」であった。労働の種類に応じて、パンの配給量は規定されていたし、働かないものには、学童とか妊婦とか特殊なものを除いて、パンの配給がないので、女も子供も働きに出る。
私の作業隊の監督は、一家六人暮しであったが、父親が炭坑の監督、長女(一六)がハッパの火薬かつぎ、長男(一三)が馬方と、三人が炭坑で働き、日に三・六キロのパンをもらい(一・二キ口宛)、母親と次男(一〇)次女(八)とも六人で、日に一・六キロのパンを食べ、二キロのパンはバザールで売って生活を立てていた。彼らの生活は食うことで一ぱいであった。
食うためには働かねばならない。ここから彼らの勤労観は出発する。働くよろこびなどおろか作業の固定しているものなどは、ひたすら八時間の経過を待ちこがれ、歩合のものは労力を最小限に惜しむ。
ソホーズ(国営農場)コルホーズ(集団農場)は雑草のはびこるにまかせ、種芋を八トンまいても収穫が五トンしかないという事実が起きるが、住宅付属地として私有を許された自分の畑は、一本の草もなく豊かな稔りをみせる。憲法によって享有されている「労働の権利」は、「労働の義務」となって重たくのしかかっていた。
富めるものは、妻は家庭に子供は学校へやり、必要量のパンをバザールで買う。そのパンこそ貧しいものが、一家総出で獲得したパンを割愛して売るパンである。「人間による人間の搾取のない国」で、一方は肥え太って美服をまとい、ラジオを備え、ミシンを買い、高い程度の生活をしているが、片方では「教育の権利」すら放棄して、食うことに追われている。
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四十九種族を包容するこの国には、ロシア語を話せない国民が沢山いる。私は入ソの車中、満
州で拾ったロシア語の本で勉強したおかげで、警戒兵をだまして四、五軒の家庭にも行き、多くのソ連人と話し合うことができた。彼らは私の片言のロシア語を聞いて、何年間日本でロシア語を習ったかとたずね、シベリアで習ったといっても本気にしない。
二十二、三歳の学校出が、技師と呼ばれて別世界の人間のように尊敬されている。子供たちも学校へ行かないものが多い。八年生の歴史の教科書をみると、秀吉の木版のさしえがあって朝鮮征伐のことが出ていたので、誰かと聞くと日本の昔のゲロイ(英雄)だと答えたが、日本の帝国主義的侵略だと教えている。
女の軍医上級中尉に、地図を描いて千島列島を示したところ、フィリピンかといった。国内警備隊の地区司令官が盲腸炎になって、収容所内の病棟に入院し、日本軍医に執刀を求めるの
も当然であろう。
(写真キャプション)大量の死者を出した後の21年春から名簿作りを