少し鼻にかかった甘い声で、彼女は私にいった。正面はともかく、横顔はまだ十年ほど前ごろ
のように美しい。彼女も映画のカメラ・アイで、それを承知しているらしく、話す時にはそんなポーズをとる。
私が彼女の映画をみたのは、その頃だった。清純な姑娘だった彼女も、今では下腹部にも脂肪がたまり、四肢は何かヌメヌメとした感じの、濃厚な三十女になってしまった。
パイコワンといえば、今の中年以上の人には、昔懐かしい中国人の映画女優である。この数奇な運命をたどった女優には、彼女らしい伝説がある。
上海のある妓楼で働いていた、彼女の清純な美しさに魅せられた、特務機関の中佐がすっかりホレこんで、これを映画界へ送りこんだというのがその一つである。
ところが、その真相は、その中佐の部下の中尉に眉目秀麗な男がいた。上海郊外で宣撫工作に従事していた中尉と、田舎娘のパイコワンとの間に、いつか恋が芽生えた。だが、命令で内地帰還となった中尉は、彼女にそれを打明け切れずに、姿をかくしてしまった。
狂気のように中尉を求めたパイコワンが、たずねたずねて上海の機関へきた時、中佐に見染められ、だまされて女優になった。戦後、漢奸として追われた彼女は、日本へ入国するために米人と結婚し、中尉を求めて渡ってきたのだと。
また、戦時中の政略結婚で、南方の小王国の王女と結婚したさる高貴な出身の日本人がいた。戦後、王国の潰滅とともに、香港に逃れたその日本人は、そこでパイコワンとめぐり合った。二人の魂は結ばれたが、男が日本へ引揚げたあとを追って彼女もまた日本へ移り住んだともいう。
私にその物語を聞かされたパイコワンは、心持ち顔をあげて、眼をつむり、静かに話の終るのを待っていた。
「素敵なお話ね。ロマンチックだわ」
そう呟いたきり、否定も肯定もしなかった。だが、何か隠し切れない感情が動いているのを、見逃すような私ではなかった。
美しき異邦人
——何だろう?
そう思った時、私はフト、彼女にせがまれて、警視庁の公安三課へ連れていったことを思い出した。
当時、マニラ系のバクチ打ちで、テッド・ルーインの片腕といわれるモーリス・リプトンが、このマンダリン・クラブの二階で、鉄火場を開こうとしたらしい。ところが、警視庁の手が入ったので、ポリスに密告したのはお前だろうと、リプトンがパイコワンをおどかしたことがあるという。
「ヤイ、ここが東京だからカンベンしてやるが、シカゴだったら、もうとっくに〝お眠り〟だぜ!」と。
リプトンにそのことを聞くと、「ナアニ、久しぶりであったものだから、懐かしくて眼を少し 大きくムイただけでさア」と、笑いとばされてしまった。