文春記事の反響
「ね、パパ。暮のボーナスで、家中のフトンカバーを揃えましょうよ」
「エ? 暮のボーナスだって? どこからボーナスが出るンだい?」
「アッ、そうか!」
つい最近でも、妻は私がまだ読売にいるつもりで、こんなことをいう。彼女には、結婚以来の十年間の辛い、苦しい、そして寂しい、事件記者の女房生活から、私が社を去ったということがこのように納得できない。私が留置場にいる時、彼女は、社へ金を受取りかたがた、エライ人に
挨拶をした。
「これからは、お友達として付合いましょう」
その人のこの言葉を、妻は何度も持ち出して、私に聞く。
「これ、どういう意味?」
彼女をしていわしむれば、あんなに肉体をスリ減らし、家庭生活をあらゆる面で犠牲にして努めてきたのは、社のためだったのではないのか、ということらしい。しかも、今度の事件も、取材であったのだから、所詮は社のためである。それなのに、辞表を受理するとは、というのである。
だが、私はそう思わない。クビを切られずに、辞表を受取ってもらえて有難いことだと思う。その上、十四年十カ月の勤続に対して、三十万百八十四円の退職金、前借金を差引いて、三万円の保釈金を払って、なおかつ九万円もの金が受取れたことを、ほんとうに有難いことだと思う。一日五百九十円の失業保険は九カ月もつけてもらえた。
私は満足であり、爽快であり、去るのが当然であると思う。
ことに、警視庁へ出頭する直前、務台総務局長は、「キミ、記者として商売熱心だったんだから仕様がないよ。すっかり事件が片づいたら、また社へ帰ってきたまえ」と、温情あふれる言葉さえ下さった。私は、それでもう、退社して逮捕されることも気持良く、満足であった。「記者としての私」を、理解して頂けたからである。この時の気持が、満足であり、爽快であり、去る
のが当然だ、という気持なのだ。
保釈出所して、社の人のもとへ挨拶に行った。その人は、私から、記者としての〝汚職〟が出てこなかったことを、よろこんで下さった。もし、〝汚職〟が出たらその人も困るのであろう。だが、その人はいった。
「ウン、局長や副社長には、手紙で挨拶しておけばいいだろう」——もはや、会う必要はないということだった。
ある先輩は忠告してくれた。
「書きたい、いいたいと思うだろうが、裁判が済むまで、何も書くなよ。そして、また社へ帰ってくるんだ。無罪になる努力をするんだ。書くなよ」——何人もからこの有難い言葉を頂いた。だが、私はこの教えにそむいて、書いてしまった。
文春を読んだ先輩がいった。
「惜しいことをした。どうして、あれに批判を入れたのだい? あの一文で、君が筆も立つし、記者としての能力も、十分証明しているのに、社に帰るキッカケをなくしたよ」
「しかし、ボクは今でも、読売が大好きだし、大きくいって新聞に愛情を持っているんです。あれだって、愛情をこめて書いたつもりで、エゲツないバクロなんか、何もないじゃないですか。そうじゃありませんか」
友人がいった。