つまりモスクワ又は東京で、アメリカの援助なしに、日本独自でやるならば、日本全権団などはハダカ同然だというのである。
鳩山放言を取上げて、重光外相にイヤ味をいってみたりしたが、〝短命の鳩山内閣〟では先を急がぬと危い。日本がどうしてもモスクワ、東京に同意しないとみてとるや、ソ側は直ちに次の手を打ってきた。
エカフェ会議に注目しなければならない。国際会議は〝諜報と謀略の場〟である。
エカフェは三月十五日から、大手町産経会館で、まず第七回産業貿易委員会が開かれた。このソ連代表ボルコフ団長以下十七名は、十四日早暁到着した。
ついで、三月二十八日から開かれた、エカフェ第十一回総会には、ソ連代表の現職駐印大使メンシコフ氏が来日した。この代表ははじめ、スパンダーレン外国貿易省東方局長であったのが、メンシコフ氏にすり替えられたもので、二十六日ひる羽田着で入京した。このお膳立のためには、すでに有力な日本通で、二十九年のエカフェにも二回もきているアデルハエフ氏(日ソ交渉の通訳)がおり、すべての基礎準備を整えていた。
エカフェのソ連代表十九名のうち、治安当局筋がその過去の在日間にチェックしていたのはアデルハエフ氏をはじめ、マミン氏(元代表部経済顧問で、二十九年にも来日)、ラージン、ゴル
ブコフ、アギーフ、ピチューギン氏ら六名もいるのである。これらのエカフェ代表が日本国内に滞在していた時期は、ちょうど日ソ交渉に関して、ソ連が沈黙を守っていた時期である。
そして、スパンダーレン総会代表が、メンシコフ大使にすり替えられたのである。そしてまたメンシコフ大使は、四月十日鳩山首相を訪問した。同日付朝日新聞夕刊によれば「メンシコフ氏は来日以来鳩山首相ないし重光外相に会見したいと、いろいろな筋を通じて働きかけていたが、政府としては日ソ関係が微妙な折から、これをためらっていた」という。
そして、鳩山首相に「第一案ジュネーヴ、第二案ロンドン」を提示したのである。
メンシコフ大使はその後、久原氏とも会見した。そしてソ側の提案を知った久原氏は、強くジュネーヴに反対して、ロンドンを主張したのである。
ジュネーヴは中立国である。中立国というのがまた、諜報と謀略の舞台であることは常識である。これはソ連にとって有利であるからこそ、ソ側の第一案はジュネーヴだったのである。
鳩山、久原両氏と会見して、来日目的を終ったメンシコフ大使は、十六日夜モスクワに向って、SAS機で飛立った。はじめの予定では、バンドンのA・A会議のため、インドへ帰るはずだったのであるが、鳩・メ会談が遅れたためであろうか。
鳩・メ会談で大体妥結の見通しをもったソ側では、十八日ソボレフ大使を通じて沢田大使へ
「ジュネーヴ又はロンドン」を回答してきたのである。
日ソ交渉に関してソ連の沈黙の時期と、多数の日本人スパイを手先に持っていた、在日経験のあるスパイ組織者のソ連エカフェ代表たちが、日本国内にいた時期とが符合するのは、果して偶然にすぎないだろうか。