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新宿慕情 p.056-057 生まれ落ちると同時にそのように育てられている

新宿慕情 p.056-057 無批判・大勢順応精神しかない。巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった〝箱娘〟みたいなものだ。生まれてすぐミカン箱などに入れて育てる。
新宿慕情 p.056-057 無批判・大勢順応精神しかない。巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった〝箱娘〟みたいなものだ。生まれてすぐミカン箱などに入れて育てる。

一、二年前ごろ。マクドナルドのハンバーグには、ネコの肉が使われている、というデマが流行ったことがあった。
「アルバイトに行ってて、禁止されていた冷蔵庫のドアをあけたら、ネコがいっぱいあった」な

どと、マコトしやかな〝噂〟が流され、新聞社などにも、電話のタレコミが相次いだ。

ウチの社にも、そんな話がもたらされたりしたものだったが、マトモな味覚であれば、あの立ち食いハンバーグなど、食えたものではない。

いま、一番小遣銭が豊富だといわれるのがヤング。そこで、ヤングを狙え、の商戦が展開されるのだが、これが、いま述べたように、〈受け手〉専門の無批判・大勢順応精神しかないのだから、〈選択〉能力がない。

ハンバーグなら、ドコ。スパゲティなら、アソコ——こういう自己主張がない。無理もない。生まれ落ちると同時に、そのように育てられているのだ。

むかし、巣鴨のトゲヌキ地蔵の縁日などの見世物にあった、〝箱娘〟みたいなものだ。

生まれてすぐ、ミカン箱などに入れて育てる。中国のテン足も、そのタグイで、足を布で強く縛ったまま育てるのだから、上体は成長しても、クルブシから下は発育不全である。ヨチヨチ歩きしかできない。

このテン足の風習は、女性に限られていた。成人しても労働には向かない。愛玩物としての性的女性、また、逃走させないためのもの、と、いわれる。

同じように、木箱の中で育てれば四角い人間ができてしまう。すべてに発育不全な〝因果者〟なのだが、座ったりすると四角になるから、見世物になるわけだ。

大衆食品の戦後派

スパゲティが、大衆食品になったのは、戦後であって、戦前は、マカロニもグラタンに使う程度。スパゲティも、洋食のつけ合わせに用いられるぐらいだった。これらを、占領軍が流行らせたのだろう。

そして、同じように、ラーメン、ギョーザを大陸から復員したり、引き揚げてきた人たちが主食のうちに加えてしまったのだ。

私が、ハンバーグから始まって、エビフライに進んだ中学生のころ、つけ合わせのスパゲティから、炒めウドンを思いついた。ウチの兄弟たちは、戦前からすでに、朝食にはパンを採用して、キャベツの炒めたのや、残り御飯を炒めたりして、それをつけ合わせにする、といった献立を考え、母親に〝強要〟していた。

(写真キャプション)新宿西口の地下商店街は、大阪の梅田に似ている

新宿慕情 p.058-059 前にもクドクド書いたように

新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。
新宿慕情 p.058-059 いま時の連中は、「ハンバーグですよ」と与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。

私が、ハンバーグから始まって、エビフライに進んだ中学生のころ、つけ合わせのスパゲティから、炒めウドンを思いついた。ウチの兄弟たちは、戦前からすでに、朝食にはパンを採用して、キャベツの炒めたのや、残り御飯を炒めたりして、それをつけ合わせにする、といった献立を考え、母親に〝強要〟していた。

当時、目白に住んでいたのだが、池袋との間に、東京パンの工場があったり、付近に、大陸帰りの人がいて、〈労研饅頭〉という名前で、中国のマントオと同じものを製造販売していたことも、朝食に、パンやマントオ(軍隊時代にも、その感激を再現したものだが、バターをつけて食うと、実に美味い)が登場するキッカケのひとつだったろう。

いまでこそ、スナックなどで、焼きうどん、などというメニューのところがあるが、油が良くないし、具が多すぎたりする。ことに、キャベツの骨まで、プツ切りにして入れたりするから、〝愛情〟に欠ける。

私などは、炒めうどんから、素麺炒めへと進んでいる。うどんにせよ、そうめんにせよ、炒めるとなると、茹で方がむずかしく、過ぎても及ばなくても、味が落ちる。

このように、創意工夫があって、はじめて〈送り手〉になれるのであって、それがなければ〈受け手〉に甘んじているしかない。それにしても、いまの若い人たちは、あまりにも、なんでも〝与えられ〟ることに、馴れすぎている。

これでは、養殖のうなぎやハマチ。ブロイラーのように、単なる〝人糞製造器〟にすぎなくなる。ワビ、サビはもとより、味などとは縁遠く、デモや内ゲバや、〝強行採決〟の働きバチとしてしか、効用価値がなくなってしまうのではないか。われわれは、《人間》なんだ、ということを、忘れないでほしい。

〝のれん〟の味

銘柄の味覚の違い

こんなことがある。

ウチの女子社員に、「雪印のコンデンスミルクを買ってきてくれ」と、頼んだ。

徹夜で原稿書きをするのに、ドリップ・コーヒーをいれるのだが、あけ方になって、疲れてくると、やや甘いコーヒーが欲しくなる。そのための、コンデンスミルクなのだ。

その娘は、「ハイ」といって買ってきてくれた。包装のまま仕事部屋に置き、真夜中に、サテというので、紙包みを開いてみたら、ナント、森永のミルクである。

ハラが立ってしまって、もう原稿が進まない。やむなく、それを使ってみたが、味が違うのでおいしくない。

いま時の連中は、ハンバーグといって出されれば、自分の知識、体験から、「これはハンバーグらしくないナ」と、疑問を抱かない。前にも、クドクド書いたように、「ハンバーグですよ」と、与えられたら、「これがハンバーグだ」と、思いこむように教育されているのだ。