ところが、早朝割引というのがあって、朝七時ごろまでに乗ると、往復切符が九銭だ。復の切
符は、一日中通用する。この四銭五厘の切符を、プレゼントしてくれるのだ。
客が娼婦と心中するのを防ぐために、刻(とき)というのがあって、二時間単位ほどで、妓は寝呆け眼をコスリコスリ、帳場まで行って、自分の名札をひっくり返さねばならない。つまり、二時間ごとに起こされるわけだ。……考えてみれば、ムゴイ制度であった。
そんな寝不足の状態でも、本部屋の客は、必ず、見送りに出てくる。それこそ、文字通りに〈一夜妻〉の役目を果たす。いま時の、朝食抜き女房などとは比較のできない献身である。
はじめての客を初会、二度目になると、裏を返すといい、三度目からが馴染みとなって、それこそ、心身ともに許す、ということになる。
それでも、娼婦たちは、接吻を避ける。身体は売っても心は売らぬ、という女心である。
「借金を返し終わったら、やはり、結婚したいの……。その時、亭主になる人に、初めてのものを上げたいの」
新宿と吉原の違い
貧困ゆえの身売りは、吉原に多かった。そして新宿には、貧乏以外に〝好きもの〟がいた。男なしでは寝られない、というタイプの妓である。
新宿女給と銀座ホステスの違いを書いた。同様に、新宿と吉原との、遊廓の違いもあったのである。
さて、私が登楼したのは、二丁目でも、中級の見世だったろうか。「梅よし」という青楼だった、と思う。
写真とは、似ても似つかぬ醜女ではあったが、先達たちからは、「遊郭で美人に上がるのはイナカモン。醜女ほど、情はこまやかで、サービス満点」と、教えられていたので、美醜はあえて問わない。
問わないどころか、心身と財布ともに、そんな余裕のない時代だった。
とにもかくにも、本部屋の泊まりなどとは、のちにいたって体験するのであって、第何回目かの遊廓行きで、しかも、初めての単独行である。
いわゆる〝チョンの間〟というヤツで、もちろん、安いまわし料金。だから、部屋も、まわし専用の殺風景なところだ。
ついでだが、〝割り部屋〟というのは、六畳ほどのまわし部屋の中央を、衝立で仕切って、両側にそれぞれフトンが敷いてあるのだ。払いがシブチンだったり、大入り満員だったりすると、泊まり客でも割り部屋に案内される。
それほどではなかったにせよ、まわし部屋に通されて、トイレに立ったのだが、二階の廊下を歩いていると、ひとりの妓と出会った。
その妓は、私の顔をジッと見つめていたが、スレ違ってから呼び止めた。
「アラ、お兄さん。以前に、私に上がったことがあるでしょ? ……ホラ、やっぱりそうだわ!」
確信にみちたその言葉に、私は、ことの成り行きを予想もできず、妓を見てみると、なんだか知っているようでもある。
「ウン、そうだったっけ?」