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最後の事件記者 p.046-047 新聞記者は全くのウソは書かない

最後の事件記者 p.046-047 私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。
最後の事件記者 p.046-047 私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。

彼の手記なるものは、彼の気持と全くウラハラな、例のむづかしい漢語の多い、公式的共産党的声明文であ

る。「…し得る権利を保有したい。」といった調子である。

学芸欄の論文じゃあるまいし、こんなものが全文社会面に載ると思って書いたのだろうかと、私はK氏頭脳を疑った。インテリだから、文字にするとなると、自分の願っていることと、全くウラハラな漢語をつづり合せてしまうのである。

私はこの論文に大ナタを振って、話し言葉に近い部分と、赤いといわれて食えない、という部分だけを残した。そうして、手記の量が減ったので、弁護士のもとに申し出ている、他の二名の分離希望の被告の話とをまとめて、原稿を書きあげたのである。

私の記者としての問題というのは、この手記の要約の仕方である。K氏は抗議していうことには、「中学校の生徒に文章を要約させたとしても、もし私の手記をこのように要約したとしたら、教師は多分落第点をつけるであろう」という。

今、素直にいって、この手記要約の抗議については、私は彼の言い分を正しいと思っている。しかし、手記以前の問題「赤いといわれて食えない」という、根本的な問題において、 彼の主張を私はいささかも、まげてはいないと信じている。彼が、読売新聞の記事によって、〝赤くない〟という客観的立証を期待した限りにおいては、この記事はそれを立派に果しているのである。

そして、その当時においては、共産党と自由法曹団にとっては、強烈な打撃であったことは確かであろう。

その後のK氏が、果して食えるようになったかどうか、記事のその意味での効果については、私は調べてみなかったので判らない。私は、K氏の抗議を結論として、全面的に突っぱねたのである。記者として、取消から訂正などを出すということは、大変に不名誉なことである。

それは、彼の取材が不正確であったし、原稿の書き方が下手だ、ということだからだ。新聞内部の組織からいって、このような間違いの責任は、取材記者本人と、その原稿を採用して紙面に載せた当番次長、さらに社会部長ということになる。

一人の記者が、相手の抗議を入れて、しばしば訂正をし、取消しをしていたならば、それは記者としての失格を意味する。だから、新聞記者は訂正や取消しを頷じえないのである。新聞社が、訂正や取消しを簡単にしないのではなくて、その担当記者がしないのである。

長い年月と、費用とをかけて、これを裁判で争うだけの覚悟がなければ、新聞に抗議を申しこむのは、ドンキホーテである。新聞記者は、一、二の例外をのぞいて、全くのウソは書かないか

らである。もし、全くのウソを書いたとすれば、それは、ニュース・ソースがウソをついたか、全く善意の過失かの、どちらかである。